「日本人は極端から極端に走りやすいという特性をもっています」
「高校の歴史の先生も言っていました。和服を脱ぎ捨てて洋服になり、鬼畜米英が敗戦になった途端にギブミーチョコレートになったと言ってました」
「それと同じようなことが、教育界で起きようとしています」
「デジタル教科書でしょ」
「さすがは当事者ですね。すぐ分かりましたね」
「デジタル教科書を導入するので、漢字ドリル、計算ドリルを新入生には買わせないということが地元の小学校では決まったようです」
「デジタル教科書の導入をすると、どうして漢字ドリル、計算ドリルを無くす必要があるのですか?」
「その発想がよく分からないので、親は戸惑っているのです。予算の問題もあるかなって思っています」
「親御さんに負担をかけたくないっていうことですか?」
「というか、デジタル教科書を導入したのに、どうして漢字ドリル、計算ドリルを購入するのかという苦情めいた質問があるようなのです」
「デジタル教科書は文科省の方針、漢字ドリル、計算ドリルは現場の方針と説明すれば良いと思います」
「私はそれで納得しますが、多くの親御さんは納得しないと思います」
「最新式のものが、一番効果が上がると思っているのでしようね。人間の教育は、単純なものではありませんけどね」
「私もそう思います。ここからが本論です ↓」
デジタルツールは万能の道具ではない
小中学校にデジタルツールを普及させようとする動きが強まっています。学校現場はどちらかというと、今まで使ってきた紙ベースのドリル指導の方がいろんな面で利点があると考えています。特に、小学校の低学年においては、紙によるドリルの方が実際の効果は上がるというのが、現場の教員の声です。
今の教育界の現場の状況は、「黒船」来航で混乱しているような状況です。今まで、「黒船」来航に備えなければいけないと唱えていた意見について、散々無視をしておきながら、ペリーが来航をして上陸した途端に、言うことが180度変わってしまったのです。
(「日本財団図書館」)
35人学級は年度ごとに順次に導入する一方で、タブレット端末を新年度に合わせて一挙に配布するというのです。現場の対応を考えれば、本来はこれを逆にすべきです。つまり、35人学級の実施を一挙に行い、端末の導入は年度ごとに順次導入するべきだと思います。
(「ソフトバンクCEO 宮内謙」)
デジタル教科書――目の健康被害の心配と愛着が湧かない
かつての時代、近くでテレビを見ると目が悪くなると言われたものです。テレビも含めて電気製品は電磁波を放出しています。それが人体にどういった影響を与えるかといった研究は、まだ端緒についたばかりですが、なるべく遠ざけて付き合うというのが基本です。
その点、日本以外の国は、電磁波対策が行われていますが、日本の場合は非常に無頓着です。まさか、変な接待が陰で行われているのではないでしょうね、と言ってしまう程無頓着です。
【世界の主な国の電磁波対策の内容】
イギリス | 16歳未満の子どもには携帯電話の使用を控えるよう勧告 |
フランス | 6歳以下の子供向けの携帯電話の販売、無料配布の禁止。さらに14歳以下を対象とした携帯の広告を法律で禁止 |
ロシア | 16歳未満の子供、妊婦、神経疾患を持つ人は携帯電話を使うべきではないとし、通話は最長で3分まで、1回電話をしたら次にかけるまで最低15分は開ける事を勧告 |
ドイツ | 子供から携帯電話を遠ざけるよう、両親は気を付けるべきと勧告。
妊婦の携帯電話の使用を禁止としている。 |
古の時代より、人は多くの知識を得るために本というものを紐解いてきました。紙というのは、人類がはるか昔に発明した文字を記録する一つのツールです。その紙でできた教科書を使い込むと手になじんできて、不思議と愛着が湧きます。
今の大人の世代は、小学校に入学した時に初めてもらった、新しい教科書のことを覚えているのではないでしょうか。その印刷したばかりの教科書をもらった時の嬉しさと、それを使いこなしていくうちに自分だけの「教科書」になっていく喜びを感じたものです。
紙というのは、めくって使っているうちに薄くなっていきます。何ミクロンの世界ですが、人の指はそれを感じることができます。それを発見した時の喜び、大人への階段を一つ上がったような気持ちになったあの日。デジタル教科書では、そんな思い、そして発見もないでしょう。
『産経』の「社説」(「検証しないで飛びつくな」/2021、3、8日付)が「急ぎ過ぎていないか」と警告を発するのが分かります。
教育行政を文科省という中央省庁が一手に権限を握って推し進めていること自体に問題あり
文科省で教育行政を担当している行政官は、国家公務員試験に合格して採用された方たちであり、教育現場のことは実際には分からないし、教員免許も殆どの人が所持していないと思われます。そのため、どうしても有識者会議の意見に頼って行政方針を定めることになります。
ただ、そこに落とし穴があると思っています。
他の科学分野の場合は、客観的な事例やデータをもとに多くの専門家が意見を闘わせれば概ね正しい方向に結論は収まっていくのですが、教育の分野においては人間相手の営為のため、エビデンスがないまま論議だけを進めることが多くなります。
どういうことか。例えば、教育のデジタル化を進めるといったテーマで議論を進めたとします。その元になるエビデンスが最初からありません。デジタル教育をした経験がないからです。道徳教育をどうするか、といったテーマで議論を進める場合も同じです。そうすると、どうなるかというと、これはあくまでも私の推論ですが、会議の主導権を握った人の意見に結論が落ち着いてしまうことになりますし、現にそうなっていると思います。かつて「ゆとり教育」の方針を決めたことがありますが、あの時はまさにそうだったのではないかと思っています。
では、どうすれば良いのか。現代教育は中央集権には馴染みません。地域の顔がそれぞれ違うからです。地域の実情に合わせて教育行政ができるような態勢を、本来は文科省が先頭に立って制度やシステム作りをサポートすべきでしょう。
デジタル端末についても、令和3年度から導入する自治体があっても、令和6年度から導入、それまでは実験校で研修を繰り返すという方針を打ち出す自治体があっても良いと思います。それは、その地域の判断として容認する心構えが必要でしょう。
アメリカでは州に教育権限を委譲し、州独自の教育課程を作っているため、教育年限や教科書もまちまちです。下の図はそれを示したものです。「5・3・4制」の州もあれば「8・4制」、「6・3・3制」の州もあります。その州の実情に合わせて、教育課程を編成できるようにしていて、合理性があります。日本の教育行政は、まるで共産主義国のようです。不登校、いじめ、ハレンチ教員の問題がなくなるどころか、増えているのはそういった教育システムにも原因があると思っています。
民主主義国にふさわしい教育行政にすることが、信頼される公教育を勝ち取る第一歩となるでしょう。
読んでいただき、ありがとうございました。
なお、デジタル教科書の導入のため、計算ドリル、漢字ドリルの購入をやめたのは東京・町田市です。すべての自治体がそのような措置をとっている訳ではありません。
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