21世紀は共産主義的なものと、いかに決別するかが、繁栄の鍵を握るだろう。
共産主義思想の原点には、真理は1つであり、それは自然科学の分野でも、社会科学の分野においても同じと考える。
そのため、単一化、単純化、定式化、画一化といったことを好む。
政治の分野においても、唯一正しい共産党による独裁政治こそが、国民を一つにまとめ上げることができると考える。
そのようにして国家の力を強め、世界の中で選ばれた国家はやがて世界を統一して、人民を幸せにするだろうと考える。
「宗教はアヘン」と言ったのは、マルクスである。
共産主義を批判する時に、よく引き合いに出される言葉である。
それに対して、現実から目をそらす役割を果たしている宗教に対して批判を加えただけである、批判をしているのは邪教であって宗教ではない、など弁護に努めている個人や団体がある。
日本共産党は、政権をとっても信教の自由は守ると言って、政権公約の話までしている。
マルクスの著作にあたって調べてみた。
『ヘーゲル法哲学批判序説』のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。
宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いている。
分かりにくい文章であるが要するに、現実の生活の中で不幸と思っている人が入るのが信仰への道であり、宗教を信じている者は、不幸な世迷い人という捉え方であり、その不幸な現実を忘れさせてくれる役割を宗教はもっている、だから「宗教はアヘン」と言ったのであろう。
マルクスが宗教はいらないものと考えていたことが分かる。
そのマルクスを信奉しているのが中国共産党であるが、ウイグル自治区でイスラム教徒に対して、大弾圧をしていることが明らかになった。
東トルキスタンの人権団体によると、中国・新疆ウイグル自治区の少数民族ウイグル人らが拘束されている収容施設や刑務所が500近くあることを確認したと発表した。
約100万人が収容されていると一般的に言われてきたが、同団体はそれよりはるかに多くの人が中国政府に拘束されている恐れがあると主張している。
収容施設ではなく、職業訓練所であると説明しているが、鉄条網が張りめぐらされた高い塀で囲まれた施設は、誰がどう見ても職業訓練所には見えない。
中国では、反邪教宣伝ポスターが街角の掲示板などに貼ってあったり、「邪教は毒。遠く離れろ」といったネット動画を配信したりしているとのこと。
宗教弾圧であれば人権侵害であるが、邪教であれば社会の治安維持のために、それを取り締まることは構わないという論法なのであろう。ただ、宗教と邪教の違いは何なのだろうか。
多分、真剣には考えていないだろう。
いずれにしても、イスラム教を邪教とするのは、無理筋であるが、共産主義者にとっては、排除すべきものとして扱うだけだからである。
上海の名門大学である復旦大学の規約の中の「思想の自由」という文言が削られていたのが明らかになったという報道がつい先日あった。
同様の措置が、南京大学や陝西師範大学など複数の大学でもあったとのことである。
中国の大学では、相次ぐ規約改正に加え、教授や教員らが、言論を理由に解雇などの処分を受ける事態が少なからず起きている。
共産主義者は、思想の自由は認めない。そんなものを認めたら、世迷い人を増やす、つまり不幸な人間を増やすだけと考えるからである。
共産主義というのは、言葉を変えれば、価値一元論であり、共産主義を標榜しなくても同じ様な発想や考え方をする国が世界にはまだ数多くあるし、日本の周辺の3か国もそうである。
これらの国々とどうやって関わっていくか、実はこの問題は日本が古代から頭を悩ませてきた問題でもあるが、先人の「隣国とは遠く付き合え」という言葉に尽きよう。福沢諭吉も「脱亜論」で隣国とは特別な関係を持たない方がよい旨のことを書いている。
中国を国賓待遇として迎えるという話があるが、もし実現したら、後々「令和の愚策」と言われるようになるだろう。
マルクスの画像は https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_86.html より
読んで頂きありがとうございました。