(この文章は4/12日に書きました)
『坂の上の雲』に戻りましょう
『坂の上の雲』は明治維新から日露戦争の頃の日本の政治、経済、外交を時代背景にして、その上に秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟と正岡子規という愛媛県の松山(伊予藩)という城下から誕生した3人を主人公のように扱いながら物語は展開していきます。
もともとは産経新聞に連載された小説ですが、連載されたのは1968年から1972年です。まさに言論界は左翼史観、唯物史観の全盛期の時代です。私は1975年に大学に入学していますが、左翼にあらずんば人にあらずという雰囲気がありました。70年安保の後ですが、大学の門をくぐれば、普通にタテカンがあり、自治会の執行部がビラを配り、朝からアジ演説を聞きながら講義棟に向かったものです。
だから実際に、東京学芸大学に教科書調査官をしていた人が大学の教官で赴任してくる、右翼反動が大学に来る、それは大変だということで反対運動が起きたような時代です。『坂の上の雲』は、当時の明治時代に対する左翼史観を明確に否定するような小説だったと思います。
司馬遼太郎が描きたかった明治時代、その時代は人間が光り輝いていた。どうしてなのかと問うた時に、江戸の封建時代の成熟した社会が成立していたからという答えが、彼の中にあったのではないかと思います。日本人の中に、封建社会=身分制社会=差別社会といった刷り込みがなされているような気がします。明治維新を境に全く違った四民平等の世界が誕生したという捉え方をしている人が多いと思いますが、そもそもその捉え方が違うというのが司馬史観だと思います。
江戸時代の成熟した封建の時代の上に、明治維新の華が開く
考えてみれば明治維新や文明開化は評価するけれど、江戸時代は評価しないというのはおかしな話です。明治政府は、しきりに江戸時代を否定しましたが、それは新しい政権が前の古い政権を批判するのはよくあることです。それに流される必要はありません。
ただ、歴史を区切る時に近現代といって、現在は明治維新で区切るのが一般的な捉え方になっていますが、私自身は、このブログで前に書いたように、近世と近代を連続的に捉え、近・近現代という捉え方をすべきと考えています。
日本の歴史を見ると、成熟した封建の時代があり、しかもその間に都市文化と地方文化が花開き、商業資本主義もある程度発達していました。教育面を見ると、各地に藩校、私塾、寺子屋があり、幕末の頃の庶民の識字率は50%くらいではなかったかと言われています。そういった基礎の上に立って、近代日本が築かれていったと捉えたいと思います。
西洋の場合は市民革命があり、権力の移動にともなって法制度や政治システムがかなり変わってしまいました。だから、近現代という捉え方で良いと思いますが、日本の明治維新は革命ではありません。権力の単なる移動であり、それに伴うシステム変更です。連続的に捉えるというのが正着だと思います。
司馬史観と言われる歴史の見方もそうだったのではないでしょうか。封建の時代、人々の意識は藩が邦(くに)でした。その藩が生み出した人材が、明治の近代化を成し遂げ、近代文学と近代の軍隊を生み出し、当時の世界一と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破してしまいます。「坂の上の雲」を見た瞬間だったのです。雲の切れ間から、洸洋たる未来を見て欲しいというのが、司馬遼太郎氏のメッセージではなかったのかと思っています。
明治維新期に活躍した人材、なぜ地方出身者が多いのか
こういう命題を立てると、薩長連合を中心とした勢力が政権を握ったので、それは至極当たり前のことと思われるかもしれません。ヨーロッパや中国大陸では、政権交代があると旧政権側の人間は全部首をはねられています。ただ、日本はそういうことをしなかったのです。チェスと将棋を思い浮かべれば、分かりやすいと思います。チェスは白黒はっきり分かれていますので、取った駒を使えませんが、将棋は使えます。生かせるものは生かして使おうという考え方をします。
実際に、江戸城無血開城の幕府側代表者の勝海舟は、いったんは幕府側に帯同して駿府に引っ込みますが、新政府側から相談を受けるようになり、外務大丞、元老院議官を歴任し,伯爵となり枢密院の顧問官(1888年)になっています。
(勝海舟)
また、戊辰戦争で五稜郭に閉じこもって最後まで抵抗した榎本武揚ですが、しばらく投獄されましたが、釈放後は明治政府に仕え、特命全権大使としてロシアを相手に樺太千島交換条約を締結したほか、外務大臣、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣などを歴任、子爵となっています(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
最後の将軍の徳川慶喜は1902年に公爵となり、貴族院議員にもなっています。さらに1908年には大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与されています(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。
反幕府側で主だった人をあげます。坂本龍馬(土佐藩)、西郷隆盛(薩摩藩)、東郷平八郎(薩摩藩)、大山巌(薩摩藩)、大久保利通(薩摩藩)、吉田松陰(長州藩)、伊藤博文(長州藩)、福沢諭吉(中津藩)、渋沢栄一(埼玉県)。こんなところでしょうか。渋沢栄一は農民の出なので県名の表記になっています。
「司馬遼太郎氏は、幕末から明治維新にかけて素晴らしい人材が輩出したが、大正から昭和にかけては描きたくなるようなロクな人材がおらず、結局バカな太平洋戦争に突入することになったと嘆いておられた」という話を紹介しているのはシンフォニアテクノロジー株式会社相談役の佐伯弘文氏です(「経営者が『坂の上の雲』から学ぶ『九か条』」『歴史通』WILL 10月号別冊 2009年NO.3)
それでは逆になぜ、幕末から明治維新期にかけて素晴らしい人材が輩出したのでしょうか。私の意見は、一つはそれぞれの藩校や私塾で行われていた特色ある教育、その中で公のために尽くすという武士道精神が教え込まれていたのでしょう。明治維新は日本の将来のため、下級武士たちが中心となって起こしたもので、その動機は極めて高尚なものです。大陸の革命と比べても、そのすがすがしさは桁外れだと思います。
例えば、フランス革命によってルイ16世、マリーアントワネット以外に王侯貴族の血を引く者は、幼児であろうと関係なく命を奪い根絶やしにしました。その後、ロベスピエールの独裁が生まれます。独裁が独裁を生み、血が血を呼んだ歴史です。
先ほどの司馬遼太郎の問題意識に戻ります。それ以降、「ロクな人材」が出なかったのは、何故でしょうか。その原因は、教育制度にあると思っています。学校制度がつくられ、大学も含めて学校の序列化が進行します。学歴や学閥尊重の秀才主義のようなものが、軍人官僚にまん延して、小粒な人間が指導者になっていったからでしょう。
中国で科挙という官僚選抜試験が6世紀の隋の時代に導入され、およそ1300年間実施されていました。中国の古代の時代に多くの見るべき思想や文学が輩出されたにも関わらず、時代が経つにつれ見るべき思想は朱子学くらいではないでしょうか。言い方は悪いかもしれませんが、段々つまらない国になり、ついには共産主義に乗っ取られてしまいました。諸悪の根源は、科挙という全国一律の公務員採用試験制度だと思います。
「司馬遼太郎が『文藝春秋』に『この国のかたち』を連載しながら、日本はダメになるかもしれないと呟いていた」(『日本文化の核心』講談社現代新書.2020年)という話を著者の松岡正剛氏が紹介していますが、戦後の画一的な教育、さらには共通一次、大学共通テストと全国一律路線が強化されるばかりです。
多彩な人材は、多彩な教育によって生み出されます。AI時代を生き抜くためには、教育の地方分権をすすめ、特色あるカリキュラムのもと特色ある人材を自治体の責任においてつくらせることが必要です。まさに、アメリカのように。
失敗した中国と同じことを今やろうとしているのです。
読んで頂きありがとうございました