「石平氏の著書に『謀略家たちの中国』(PHP研究所、2009年)という本があります。その第一章が蘇秦(そしん)です」
「蘇秦とくれば、謀略家として知られていますよね」
「時代は紀元前4世紀のことです。中国は7つの国、秦(しん)、魏、韓、趙(ちょう)、楚(そ)、斉(せい)、燕(えん)が成立していたのです」
「当時は春秋戦国時代と言われていましたよね」
「そうですね、戦乱に次ぐ戦乱の時代でした。そういう時代を駆け抜けた男が平民出身の蘇秦という男だったのです」
「彼のことは司馬遷が『史記』の中で秦以外の6か国の宰相を兼任して、外交をすべて牛耳る立場であったと書いています」
「一つの国の宰相、つまり日本で言えば総理大臣ですよね。そこまで上り詰めるのが大変なのに、6か国の宰相を兼任したという」
「凄いですね。彼の実力もさることながら、時の運みたいなものがあったのでしょう」
「彼をそこまで出世させたのは、マクロの目を持ちながら、ミクロの政治工作を緻密に行ったからです」
「マクロの目というのは、何ですか?」
「戦略的な目ですね。当時の中国を俯瞰して、7つの国があるけれど、それを1対6の関係だと見抜いたところです」
「それを見抜いた後、彼は巧みな話術で自分の味方に付けてしまのですよね」
「外交とはこういうものだという手本がそこにはありますし、日本の近くに権威主義と拡張主義を掲げる大国の中国があります。日本外交はどうあるべきか。「蘇秦外交」を紹介しながら、日本の外交に採り入れることができないか、そのような視点で見ていきたいと思います」
「ここからが本論です ↓」
目次
合従連衡(がっしょうれんこう)の策
合従連衡という4字熟語は「その時の利害に従って、結びついたり離れたりすること。また、その時勢を察して、巧みにはかりごとをめぐらす政策、特に外交政策のこと」(『三省堂 新明解四字熟語辞典』)の意味として一般的に使いますが、もともと合従は蘇秦外交の方針であり、連衡は張儀の政策です。
合従の「従」は縦を意味しているので、「縦」の字を使うこともあります。蘇秦が生きた時代は7か国が戦国の覇を争う時代だったのですが、その中で秦は最も西側に位置し、「虎狼(ころう)の国」と呼ばれ、対外的に最も侵略的な国だったのです。
蘇秦が最初に目をつけたのは秦
合従の方針が最初からあった訳ではなく、彼が一番最初に説得にあたった国は秦だったのです。秦に行って、天下統一を勧めます。ところが秦王に鳥は羽がないと飛べないように、政治経済の分野においての立て直しがまず先であるというようなことを言われ、結局説得に失敗します。
蘇秦の秦による天下統一の征服プランが否決されるや否や、一転して今度は「反秦」の立場に立ちます。彼が向かった先は、7か国で最も弱小国の燕(えん)だったのです。
このように、蘇秦にとって理念や理想像は最初からありません。彼にして見れば、秦の統一国家が成立しようがしまいが、それはどうでも良いことなのです。自身が力を発揮できる環境があり、その中で成果が上がれば良いと考えるのです。
一番弱小国の燕を最初に取り込む
燕の国の王に会った時に何を語ったのか。燕の置かれた状況を客観的なデータに基づいて語ります。国土の広さ、戦車や軍馬、兵の数、そして食糧備蓄などについて。さらに、今後の経済的な発展性や可能性について語り始めたのです。
現代であれば、すでに公開されている様々なデータを組み合わせながら、その国の政治的、経済的発展の可能性や防衛問題などについて言及することができます。ところが、彼が生きた紀元前の時代は、一つひとつのデータを得ること自体が大変なことだったと思います。それを彼は自身の足で調べ上げたのでしょう。そして、王の人となりもすべて調べたのだと思います。どういうタイプの王なのか、それによって切込み方が違うからです。
燕の国の王は、一つのデータが出るたびに驚いたと思われます。マジックを見るような気分になったのかもしれません。一度の会見で燕の国王は、蘇秦の戦略を受け入れ、彼に馬車や軍資金を提供することを約束したのです。
(「ウィキペディア」)
一点突破、全面展開
燕の国王の全面的信頼を武器に、蘇秦が乗り込んで行った国は燕の隣国の趙(ちょう)です。趙は地政学的に最も不安定なところに位置している国です。大国秦と国境を接し、すぐ南には魏、さらにその南には韓がいます。それらが同盟を組んで攻め寄せれば、滅んでしまうことも大いにあるような不安定要因を抱えた国でした。
そういう中で、隣国の燕との軍事同盟は嬉しい話だったと思います。蘇秦はそういったウイークポイントを巧みに突きつつ、燕の軍事的な援助を匂わせながら燕と趙の同盟にこぎつけたのです。
物事は流れがあります。ある方向を大きく遮るものがあり、それを知恵と工夫により突破することが出来た場合、その後の展開がスムースに進展することがあります。燕と趙の同盟の後、ドミノ倒しのように他国の王が同盟に同意をしたのです。そして、秦に対抗する6か国の同盟が形成されていったのです。
(「犬も歩けばFINTECH情報」)
理念よりも実利優先の風潮が大陸を支配する
以上の話は、春秋戦国時代の中国において繰り広げられた国家の防衛戦略をめぐる動きです。特異な点は、どの国にも属さない一介の浪人のような男が弁舌巧みに各国の王を口説き落とし、大国の秦に対抗する6か国同盟を完成させ、自身はその同盟の長として君臨する地位にのし上がったということです。
蘇秦の一連の行動を見てみると、そこには理念とか志といったものは何もありません。最初に秦を説得したのですが、それが無理と判断するや否や180度方針を変えてしまいます。
つまり、彼を行動に駆り立てているものは、いかにして天下国家を動かすか、その中でいかに多くの権力を握るかといった即物的な欲求です。ただ、そのような人物が活躍できたということは、当時の各国の王も同じような考え方であったということだと思います。
実利優先の功利主義的考え方が、現代にも受け継がれている
その時々の状況や都合に合わせて言うことを変える、相手が弱いと見れば無理難題の要求をぶっつけ、強いと見れば笑顔を見せて譲歩する。言葉はあくまでも外交上の利益を得るための武器に過ぎず、真理を語るために用いるものではない。彼らにとって、本当のことを言って、国益にとってマイナスになるようなことをする者は馬鹿と言われる。
「相手を知り己を知れば百戦戦えども負けることなし」という諺があります。戦後の日本外交が連戦連敗の惨状なのは何故なのか。簡単に言えば、相手のことがよく分からないまま、無防備に近づいていって、様々なことを決めたからです。
戦後の歴史教育の問題もあります。歴史教科書に書かなくても良いようなことを書いている国は、日本くらいのものでしょう。合従連衡は古代の話ではなく、現代の世界政治においても通用します。世界には理念ではなく、実利で動いている国が多いからです。現実の力学が、どのようにそれぞれの国家に作用しているか。蘇秦であれば、そんなことを考えたでしょう。
読んでいただき、ありがとうございました。
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