(この文章は2/24日に書きました)
中高一貫校で社会科の教師として37年間勤務する傍ら執筆活動にも力を入れる。著書多数。
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形から入る日本の教育、精神から入る西洋の教育
情報過多で、価値観が激しく揺れ動いている時代です。私自身は、物質万能の時代から、心や精神の科学的解明が進み、それらが大切にされる時代に変わる転換期だと思っています。
こういう激動の時こそ、先人たちがどのように子弟の教育を考えてきたのかを知って欲しいと思っています。大きく分けて2つあります。形から入るのと、中身(精神)から入る考え方です。日本は儒教教育の影響が強いこともあって、形からという考え方が、主流と言っても良いと思います。孔子の教えは仁と礼です。剣道や柔道では、「礼に始まり、礼に終わる」と言っています。実際に礼をすると「丹田スイッチ」が入り、背筋が伸びて、力が出るようになります。形をまず整えていく、そうすれば自ずと精神も鍛えられると考えます。
躾という言葉があるように、日々の生活にあたっての所作を大事にしてきたのが、日本人の伝統的な考え方です。日本社会の中で生きる以上、家庭で子供たちに教える必要があります。座り方、食事の仕方、箸の持ち方、鉛筆の持ち方、字の形を整えることなどです。なんとなく、軽んじられている傾向がありますが、しっかり身に付けさせたいことと考えています。
一方、中身(精神)から入る考え方は、西洋に多いと思います。理性、精神という言葉の源は、西洋です。オリンピックはローマから始まりましたが、肉体を鍛える究極の目的は精神の鍛練にありました。また、エディケーション(教育)は、引き出すという動詞が語源となっています。西洋では人間の本質は、精神にあり、それをまず鍛えることが大事という考え方に至ったのだと思います。
上の2人の会話の中に、モンテッソーリ教育と言っていましたが、モンテッソーリ教具と呼ばれる道具や自然の中のものを素材として使うというのが特徴です。子供たちは、知的好奇心を強くもっているので、異年齢集団を人為的に作って、ある一定の空間の中に入れてあげると、教具(おもちゃ、実験道具)を使って様々に動き始めます。それが彼らに知的発達をもたらすと考えます。
20世紀初頭にイタリアの精神科の医者であったマリア・モンテッソーリが知的障がい者のために考案したものですが、健常児に対しても効果があるということから、開発されたプログラムです。フランスの思想家ルソー(1712~78)の影響が強いのではないかと思われます――「自然は絶えず子どもを訓練する。自然はあらゆる種類の試練によって子どもの体質を鍛える」(『エミール』明治図書.1985年/38ページ)
外から始めて内に向かうのか、内から始めて外に向かうのか。日本の今までの公教育の発想は、前者です。ただ、非常に能力が高い子供や発達障害があれば、後者だと思います。
人を見て法は解かなければいけません。万人に合った教育は、ないと考えて下さい。人間は一人ひとりが極めて精密に創られていますので、そのもっている能力を十全に引き出すためのプログラムは無数にあります。だから、Aさんは一斉授業7、個別指導3、Bさんは一斉授業5、個別指導5というように策定する必要があると思っています。ただ、そういうことまで行っている国はありませんが、そこまで出来れば、世界一の経済大国になります。「国づくりは人づくり」ということが分かっていない政治家が多いのです。
21世紀はAIの時代
「人間の仕事の多くがAIに代表される社会はすぐそこに迫っています」(新井紀子『AI vs 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社、2018年/3ページ)。
それなのに、文科省の方針が定まっていないので、ある程度自己防衛 (家族防衛) 的に考える必要があると思います。全面依存して大丈夫であれば、何も考えることなく、本人の希望を踏まえて、小学校、中学校と学校生活を過ごさせれば良いと思いますが、それだけでは少し危険です。
例えば、今度の4月から英語が小学校5年生から必修化されますが、完全な愚策だと思っています。グローバル化の流れの中で決まった方針かもしれませんが、今やその潮目は変わろうとしています。
英語を勉強したからといって、AIの時代に必要な考える力や創造力は身に付きません。人は考える時は、母国語を使うからです。英語はあくまでも、コミュニケーションツールに過ぎません。ツールなので、優秀な機械に任せれば良いと思います。機械の後追いを人間にさせて、何を考えているのかと思っています。自分の狭い経験でモノを言う人の意見を取り入れるから、おかしなことになってしまうのです。外交官やプロのスポーツ選手として国際舞台で活躍したい、アメリカ留学などを考えている人以外は、いらないと思います。人間の知力は、より精度の高いAI自動翻訳機の開発に向けられるべきです。英語は従来通り中学からのスタートで十分でしょう。
プログラミング学習は、順序立てて思考することを教えてくれますので、人間の知的能力の開発にとっても有効だと思います。そして実際に、コンピューター言語を学ばないと、コンピューターを動かすことができません。
資本主義社会というのは、競争原理が働く社会です。その競争が激しくなって格差が余り広がらないように政府がコントロールする必要があるのですが、今のままでは難しいと思います。激しい格差社会が訪れようとしています。そこを生き延びるために、子供たちが持っている能力を親がいち早く見極めて、親子、家族で協力していく必要があります。
AIの時代を乗り切るためには、地方に教育権限を移譲する必要あり
不登校生徒が小・中学校合わせて13万人、いじめ件数が小・中・高合わせて55万件、これ以外に保健室登校、図書室登校、校長室登校といった不登校予備軍が10万人位います。不登校からひきこもりになる人も多くいます。コロナウイルスに100人感染したと大騒ぎしても、何十万人の子供が不登校なのに素知らぬ顔はひどいと思います。原因を探ることもなく、こういった子供たちを事実上、見捨ててしまっています。
しかし、こういう現実の数字がありながらも、政府も国会も何も考えようとしていません。今までは、それに対して対抗する術(すべ)がありませんでした。黙って見ているしかありませんでしたが、今はSNSで発信できるようになりました。国民一人ひとりが、自分の言葉で発信して欲しいと思っています。
ところで、もともと教育は、個別具体的にその子の能力に応じて行われるべきものです。そのことは、すでに憲法に明記してあります。ただ、財政的制約と技術的制約があったため、全国一斉授業方式を行っていたに過ぎません。今後は、AIに対抗できる人材を多く育てる必要があります。そのためには、文科省は地方に教育課程編成権を移譲し、地方の自主的な教育創造に日本の未来を託す必要があります。それは「アメリカ教育使節団報告書」も謳っていたことです。
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日本は地域教育の伝統があります。そこから輩出された人材は、明治の近代化を押し進めました。邦人、郷土、故郷、地元という言い方があります。日本人は伝統的に、地域に根差して生活してきました。そこからエネルギーをもらって、生きてきました。教育権限を地方に戻すことは、エネルギーを注入することにもなり、教育の無責任体制の解消と少子化解消の糸口になると思っています。
読んで頂きありがとうございました