「今から16年前の教育アンケート(読売新聞社)を持ってきました」
「随分古いものを持ち出してきたのですね」
「実は事態は何も改善されていないということを認識してもらいたいと思って持ってきたのです」
「当時はいわゆる『ゆとり教育』の時代ですよね」
「そうですね。数字を見ると、完全に「ノー」の声が国民から発せられていることが分かります (詳細については本論にて)。そして、その中身を見てみると、実際に「ゆとり教育」を受けている家庭ほど、否定的な意見を持っていることが分かります」
「『ゆとり』というまやかしのスローガンが、子供や親たちに見破られたということですね」
「その後、文科省は密かに『ゆとり』の旗を降ろします。そして、教員免許の更新制度を導入します」
「10年ごとの更新制度を導入するのですが、評判は芳しくないみたいですね」
「そもそも教員が更新料(約3万円)を負担して、どうして免許を持っていない人の指導を受けなければいけないのかが分かりません」
「免許を持っていない人の指導というのは、どういう意味ですか?」
「大学の教員のほとんどが小中高の教員免許を持っていません。教育のことを学問的に深めていることと、現場の教員に対して実践的に指導できることとは別のことです」
「だけど、更新制度がスタートして、もう10年以上経っていますよね」
「教員の質の向上に寄与していないことはデータを見れば明らかです。いじめ、不登校、わいせつ教員は増え続けています。早く止めて別のシステムを考えた方が良いと思います」
「例えば、どういう方法がありますか」
「現場から離れたところで現場を知らない人が指導しても全く意味がないので、例えば長い教育経験を積んで授業のテクニックをもった人を「教育コーチ」として認定し、その人が専門でアシスタントコーチのように地区に張り付いて、授業や子供との接し方や公文書の処理の仕方など直接指導するようなことを考えた方が良いと思います」
「ここからが本論です ↓」
文科省は「ゆとり教育」の総括をしていない
読売新聞が今から16年前に教育に関する全国調査(調査日/2005.1.15、1.16、対象者/全国有権者3000人、250地点)をしていますが、このアンケートを実施した読売新聞は、当時行われていた「ゆとり教育」をどう転換するかが課題であり、問題であると指摘しています。
なぜ、そのような結論に達したのかということですが、理由は簡単です。かなり厳しい回答が寄せられていたからです。それから16年。事態は一向に改善されないまま、令和の時代に突入しています。国民主権の時代なので、教育行政についてアンケートを実施するなどして国民の意見を聞く必要があると思います。何でもかんでも審議会に諮問すれば良いというものではありません。
【今の学校教育に満足していますか】
満足している 4.1% どちらかというと不満、不満 70.9%
【今の学校教育に対して、不満に思うことは何ですか】
教師の質 60.0% 学力の低下 44.5% 道徳教育 42.2% いじめ 36.2%
いじめがよく問題視されますが、それよりも不満に思っていることが3つあります。不満のトップが「教師の質」です。実は、この質問は1985年から毎回聞いているそうですが、最高値を更新したそうです。教員養成のあり方そのものを考える必要がありますが、この後、文科省は何も取り組んでいません。というか、現場が分からない行政官なので、どこをどうして良いか分からないのだと思います。
【学力低下の原因】
授業時間の削減 50.2% 教師の質の低下 41.3% 日常生活の乱れ 37.2%
教科内容の削減 36.2% 家庭や地域の教育力の低下 29.4%
中央集権的教育行政は、21世紀の日本に合わない
経済評論家の上念司(じょうねんつかさ)氏は、文科省は日本に存在してはいけない役所だと言っています。彼の言葉を紹介します――「ハッキリ言って、なくても困らない。先進国には文科省がない国がほとんどだ。では、教育行政は誰がやるのか? それは各地方自治体の教育委員会がやっている。そして、十分それで用が足りている」(「日本を滅ぼす岩盤規制」2/『夕刊フジ』2018、12、12日付)と指摘します。
日本人は農耕民族のDNAを引き継いでいるため、自分の生まれ故郷を中心にした地域を中心にして何事も発想していく傾向があります。「おらが邦(くに)」という言葉が遺っているのは、その証左です。実は、徳川の天下泰平の260年間は、地方分権がもたらした繁栄の時代だったのです。
日本が開国をした時期というのは、欧米の植民地競争がアジアの地域に及ぼうとしていた頃です。そこから、明治維新を経て近代化を進めるのですが、その際に多くの有為な人材が地方から輩出されます。その人材は、江戸末期において藩校、私塾、寺子屋で育った人材だったのです。そこには別に全国統一のカリキュラムがあった訳ではありません。それぞれの藩の事情、地域の実情を踏まえて、特色あるカリキュラムのもと地域教育が実践、創造され、それが地方の文化を支える人材、ひいては近代日本を支える担い手を生み出したのです。幕末期における識字率は70%くらいだったと言われていますが、当時の西洋の近代国家と比較しても遜色のない数字です。その遺産が、明治期に受け継がれていきます。
(「日本史辞典.com」)
文科省の前身の文部省を創設したのは、1871(明治4)年です。廃藩置県の直後であり、明治憲法制定、議会開設よりはるか前です。どうしてそんなに急いだのか。開国をして欧米列強に対抗できる強い国にしなければ、植民地として支配されてしまう。そうならないためには人材育成が急務と考え、国が統一した教育制度の根幹を定める必要があるという判断がそこにあったからです。
それから150年、現在は地方の特色を生かして子供たちを育てる時代です。中央集権的な教育の旗振り組織はいりません。全国一斉休校という愚策を行うのが関の山です。
SDGsの中に「質の高い教育」という項目があります。「質の高い」というのは、その子の問題意識と生活環境に合った教育であり、能力を伸ばすための教育が個別具体的に提供される必要があります。人間はブロイラーではありませんので、一律一斉授業では、21世紀を担う高度な人材を育てることができないと思います。地域に根差した教育の創造が求められています。
有元秀文氏は高校教諭の後、文部科学省の教育研究所主任研究官をされているという、現場と文部科学省の両方を経験されている方ですが、彼は「文部科学省を解体しない限り、日本の明るい姿は見えてきません。……まずは、都道府県や市区町村にもっと自主性をもたせて、自分たちで工夫するようにしたほうがいいでしょう。教科書検定なんて不要です。どの教科書を使うのかは、使うほうが考えればいいことです」(『文部科学省は解体せよ』扶桑社、2017年/126ページ)と言っています。
少し話はそれますが、地方の文化を遺すために一番効果があるのは、方言を教えることです。学校教育の現場で方言を教えている自治体としては沖縄県があります。沖縄県の中には、方言で書いた作文コンクールを実施している自治体もあります。また、方言を遺すための活動をしている方たちもいます(下のポスター)。そういう地道な努力が、人口減を止める力になっているのです。教科書に「地方文化を大切に」とスローガンを入れたからと言って、文化が育つ訳ではありません。標準語は標準語として教え、方言は方言として教える、そうすれば地方文化は継承され、地方の衰退も進展しなかったと思うのですが、それをしなかったため、日本全国すべてが資本の論理で動くことになります。
文科省自体が、利権の温床になっている
その組織の内部がどうなっているのか、それが分かる手っ取り早い方法は、その組織のトップのメンバーの行状を見ることです。トップが反日的であれば、組織全体がそういった体質であることはすぐ分かります。
何年か前に、前川喜平次官が天下りのあっせんに自ら関与していたということで引責辞任をしています。東京・歌舞伎町の出会い系パブに足繁く通っていたと報じられていた方ですが、在任中の繋がりを生かして現在は全国で反日の立場から講演活動をしています。
2018年7月には文科省の支援事業を巡る汚職事件で、文科省の前局長の佐野太容疑者が受託収賄罪で起訴されています。彼は次官候補だったのですが、自分の息子を不正に大学に入学をさせようとしたのです。
権限が多くなればなるほど利権と不正の温床は育ちます。大学の設置、大学人事、教科書検定など多くの権限が文科省にあります。一度手離すことだと思います。『文部科学省は解体せよ』という声は、内部にいて醜いものをいろいろ見た方が日本の教育にとってそれが一番良いことだと思って発した言葉として理解する必要があるのです。