「公立小中学校の『少人数学級』を巡って文科省と財務省の攻防が続いているというニュースが飛び込んできました」
「文科省と財務省とでは、財務省が勝ってしまうでしょうね」
「それじゃあ、いつまで経っても教育条件は良くならないじゃあないですか」
「いつまで経っても、ということはないのですが、どうしても後手後手になるでしょうね」
「戦前は国家政策の中心に教育が位置づいていたのに、戦後は予算も充分に回らないという状況ですが、何か原因があるのですか?」
「実は、戦前の教育行政を取り仕切っていたのは、文部省(現文科省)ではなく内務省だったのです」
「泣く子も黙る内務省というやつですね。それでは、文部省は何をしていのですか?」
「文部省の業務は教科書の編纂だけだったのです」
「ハードは内務省で、ソフトは文部省という役割分担が出来ていたのですね」
「そうなんですね。戦前は富国強兵政策をとっていて、人材を育てることを国家戦略の中心に位置付け、それを内務省に託したのです」
「内務省は、今はありませんよね」
「敗戦後にGHQの指令によって解体・廃止されました。内務省が行っていたことを現在は、文科省、総務省、国家公安委員会、出入国在留管理庁がそれぞれ担当しています」
「戦後は文部省(現文科省)がハード面とソフト面にわたって、日本の教育を一手に引き受ける官庁として設立されたのですね」
「現在の文科省となったのは2001年です。文部省と科学技術庁を組織的に統合したのですが、私に言わせれば馬鹿なことをしたものだと思っています」
「やはり、無理があるということですか?」
「文科省は省庁の中で権限が最も弱い部類に属しますし、その弱い省庁に教育のハード、ソフト、科学技術という3つの分野を任せるのは、かなり無理があると思います」
「その弊害が、出始めているように思います」
「賢者は崖から小さな石ころが2,3個落ちただけでがけ崩れを予見するものです。がけ崩れが起きない前に、国としてまとまった政策あるいは組織変えを打ち出して欲しいと思います。本来は、こういったことを学術会議に期待されているのですが、提言を見ると殆どピントがずれています。年間10億円が無駄金になっています」
「ここからが本論です ↓」
人材育成を国の中心に据えることを考える時代
省庁間の力関係がある。その中で考えて良いことと、それではいけないことがあります。国にとって重要なことをその力関係の中に入れてしまえば、実現しないことも当然出てきます。財務省は、なるべく余分な金を使わせないようにするという使命をもって仕事をしている省庁です。そこに文科省を立ち向かわせるのは酷というものです。何故なら、説得し切れないからです。
どういうことか。教育というのは、因果関係がはっきりしないものなのです。その特性を充分知った上で予算を考慮してくれれば良いと思いますが、そういうことを財務省は理解しようとしないでしょう。
今流行りの言葉で言えば、エビデンス(証拠)ということなのですが、文科省が要求しているのが「少人数学級」です。現在の規準は1クラスの上限を40人(小学校1、2年生は35人)としています。この基準を変えて欲しいと文科省が言えば、財務省はそのエビデンスを求めますが、無理だというのが分かると思います。
人間を育てるということは、機械を組み立てることと違って、何かをしたから、結果が出てくるというものではないからです。「そういうことを示せないのですか」、では、「予算増額は無理ですね」と、必ずそういう話になると思います。実は、科学技術関係も同じです。基礎研究や宇宙開発などは、そんなの必要なのと思われてしまったら予算がつきません。「はやぶさ2」も場合によっては、つかなかったかもしれなかったのです。
社会福祉や民生関係は因果関係がはっきりしているので、予算を請求しやすいのです。高齢者が何万人増えたので、それに係数をかけた分を予算請求できます。給付金が必要ということが決まれば、後は人数が確定すれば、予算額が出てしまいます。教育や科学技術関係はそうはいかないのです。高度な政治的判断が必要なものを、権限が弱い文科省にさせているので、日本の教育や科学技術がジリ貧になっているのです。
OECD調査にみる日本の教育の位置
OECD(経済協力開発機構)というのは、簡単に言えば「先進国クラブ」です。その中で日本の教育条件がどうなっているのか、ということを見てみたいと思います。
OECD が発表した2020年版のデータによりますと、小学校27人(OECD加盟国平均/21人)、中学校32人(OECD加盟国平均/23人)です。加盟国中で日本はいずれも2番目に多かったのです。
少人数学級に対する要望に対して、「人数が減るとクラスの多様性は確実に下がる。付き合える人間の幅が小さくなり、仲の良い友達と出会える可能性も減る」(木村草太・東京都立大学教授(憲法学)「教員増でフォローできる」『東京』2020.12.13日付)という意見が専門外の人から出ています。
この論法は、学校統廃合でも使われた論法であり、行政的な発想です。何をもって「多様性」と捉えるかは難しいし、この論法だと母集団を多くすればするほど多くの友達と出会えるということですが、実際にはそういうことはありません。友達をつくる才にたけた子は、人数が少なくても関係ありません。また、一人の人と深く付き合いたい、という子供もいるし、いじめを考えれば、母集団が少ない方が危険性は低まります。
人間は機械ではないので、測ったように育てられるわけではありません。当然、イレギュラーなことが日常的に起こります。
一番考えなければいけなのは、どのような人材を求めるかだと思います。それは時代によって変わることもあります。21世紀の教育は、今まで以上に個々人の能力を見極める必要が出てきます。当然、少人数クラス、そして、原則的にダブルティーチング体制で教えるという時代になったと思います。一人の教師に一つの集団ではなく、いろんな角度から子供たちを見ることができますし、そして授業の仕方をお互い学ぶことができます。変なことを考える教師もいる時代です。監視にもなるでしょう。
吉田松陰の松下村塾からは、総理大臣2名、国務大臣7名、大学創立者2名を輩出しています。松下村塾は単なる私塾で現在も実物が保存されていますが、坪数にして10坪あるかないかという掘立て小屋のような教場です。当然、収容人数も限られています。母集団を多くすれば良いというものではありません。
教員養成の在り方を抜本的に考える時代
校長が覚せい剤所持とか、教員がハレンチ罪でつかまるような時代になっています。教員養成の在り方を一から考え直す必要があると思います。
文科省の調査によると、2019年3月に国立44大学の教員養成課程を卒業して教員になった者は6,476人とのこと。新卒で小学校の教員になった者が18,200人、同じく中学校は10,544人です。差し引いた、22,000人が教育学部以外から、教職課程をとって教員になった者ということになります。教育学部出身者が全体の3割程度です。この数をどう見るかということです。
他学部から教員になった者ほど、勉強を教えることを第一と考える傾向が強いように思えます。本当は、この辺りのことについてデータをとって分析をする必要があるのですが、文科省はそういった問題意識すらもっていないようです。
教員の仕事は、人間を育てながら勉強を教えることです。両方をバランスよく指導できなければ、人間は上手く育ちません。才能があっても、開花することなく終わってしまうこともあります。すべては、教え方次第なのです。
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