「あの頃君は若かった♬ という歌知っていますか?」
「どうしたのですか、今日は歌の話題ですか?」
「いや、それに引っ掛けて、あの頃日本は貧しかった、という話をしようと思ってね」
「あの頃、というのはいつ頃のことですか?」
「戦前ですね。それが理解できないと、どうして世界には日系人がいるのか、分からないと思うからです」
「昨日のブログの中でアメリカ移民の話がありましたよね。あれっと思ったのは確かです」
「日系人が一番多いのはブラジルです。アメリカは2番目ですね。そのアメリカの中にハワイが入ります。2つの国を合わせて、270万人位います」
「そんなにいるのですか?」
「戦前の日本は出生率が高く、人口をまかなうだけの農地が足りないし、さしたる産業もなかったので、政府は海外に移民として送り込むことにより打開しようと考えたのです」
「そういうことを歴史の授業で一度も聞いたことはありませんけど……」
「日本の歴史の秘部みたいになっているのですよ」
「どうして、秘部にする必要があるのですか?」
「唯物史観では説明できなくなってしまうからではないかと思っています」
「簡単に説明をして下さい」
「資本主義国は高度に発達すると、帝国主義的本性を現し、侵略戦争に突き進むという唯物論の「公式」みたいなものがあるのです」
「彼らからすれば、貧しい日本が帝国主義戦争に突き進むことはあり得ないということなのですね」
「ただ、これはあくまでも私の意見だということで、ご承知おき下さい」
「ここからが本論です ↓」
戦前の日本は貧しかった――貧しい中で精一杯生きようとした人たち
「ああ野麦峠」は、1968年に山本茂実氏が製糸工場に勤めていた明治生まれの元女工さんたちに聞き取り調査をしたものを元にノンフィクション小説として世に出したものです。小説に描かれた若き製糸工女政井みねは、実在していた方です。彼女の墓は現在、河合村角川(つのかわ)にある専勝寺の裏手に「ああ 野麦峠」の案内板とともにあります。
かつて、大竹しのぶ主演の映画として上映され、労働基準法がない時代の過酷な女工たちの運命に涙した人も多かったのではないでしょうか。
元はと言えば、欧米列強の植民地レースに巻き込まれたことが大きな原因です。明治の時代となり、日本は知らず知らず資本主義の競争原理の中に身を置くことになります。過酷な生き残りレースでもありました。富国強兵を目指して、殖産興業に力を注ぎます。その方針に基づいて、富岡製糸場が造られたのです。当時は、生糸が最大の輸出品だったのです。まさに、養蚕農家さらには繭から糸を紡ぐ女工たちが日本経済を支えていたのです。
長野県諏訪地方は、水も空気も奇麗なことから多くの製糸工場がありました。そこに、周辺の農家から集められた少女たち、多くの少女達は年季奉公として働きに出されたのです。女工たちは朝の5時から夜の10時まで来る日も来る日も繭から糸を紡ぐ作業をしたのです。
エアコンなどない時代、工場内は夏の蒸し暑さ、冬の寒さ、さらには繭の異臭が漂う中で、絹糸を紡いだのです。頑張れば「百円工女」として表彰してもらえる、それだけを励みに頑張った女工もいたのです。明治の初めに15円の年税を納めた人に選挙権を与えていましたが、人口の1.1%でした。そこから計算すると、現代に直すと「1億円工女」ではないでしょうか。自分の紡いだ絹糸の総売り上げが、1年間で1億円、1日あたり30万円、それを目指したのでしょう。ただ、それは常に家族の生活を楽にさせたいという一心だったのです。
政井みねは、飛騨の貧しい農村の出身でした。日々の頑張りが彼女の体を蝕んだのでしょう。病気となり、実家に「すぐに引き取れ」という連絡が入ります。当時は、病気になると、家族に渡していたようです。奉公なのに、病気の治療はしなかったのです。
みねの兄の辰次郎が製糸場に彼女を引き取りに来ます。交通機関などない時代。おんぶをして、連れて帰ります。帰ると言っても、長野から岐阜の飛騨まで相当な距離があります。そのため、長野の松本の病院に入院させようとするのですが、みねは飛騨まで帰ると言い張ります。仕方がないので辰次郎は再びみねを抱えて歩き始めます。そして、野麦峠の頂上にたどり着き、みねは「飛騨が見える」と喜んだと思った途端にそこで絶命してしまいます。
ブラジルに渡った日本人移民たち
どうして、ブラジルに日本人は渡ったのか。現代の感覚では、分からないでしょう。もともと黒人奴隷を使ってコーヒー生産をしていたのですが、その奴隷制を19世紀の末に廃止します。ブラジルはそのため、奴隷に代わる新たな労働力が必要となります。その求めに応じて日本人がブラジルに渡ります。1908(明治41)年から農業移民が始まります。
ところが、第二次世界大戦が勃発します。日本はブラジルの敵国となり、国交断絶、日本語の使用禁止、移民の強制立ち退きが始まります。ただ、中には定住を決意してブラジル国籍を取得し、日系移民としての生活を始める者も出ます。彼らの創意にあふれた街づくりが、ブラジルの国に活気を与えます。
歴史は裏面史を教えることが重要
歴史の裏面史を教えることをしなければ、歴史を学ぶ意義が薄れます。今回、ほんの少しですが、戦前の日本の裏面史の一部について紹介しました。
このような話を知っていると、例えば、徴用工の話を聞いた時に、その当時の「モノサシ」で物事を判断することができるようになります。知らないと、結局今の規準を歴史の事象にあてはめて考えようとします。そこから狂いが生じるのです。
また、裏面史を知れば、歴史をまた別の視点から見てみようという気持ちが起きてきます。また、それが思いがけないようなアイディアを生むことがありますし、自分の生き方のお手本にしようと考える人も出てきます。歴史の教科書に載せるのが難しいのならば、例えば、国語や道徳の教科書に載せるという方法もあります。
ただ、もう時代は教科書を全国一律で作る、しかも中学校は4年ごとに作るという時代ではありません。例えば、「ああ野麦峠」の話は、長野県、岐阜県の子供たちには知っていて欲しい内容です。そのように、地域には地域の事情もあり、歴史と文化があります。それを地元の公立学校で教えるという態勢をとるべきでしょうし、そういうことが地方の活性化、地方創生に繋がります。
安倍首相は外交については、優れた手腕を発揮しましたが、教育については全くといっていいほど無頓着でした。それを良いことに、文科省が勝手に反日教育を密かに進めています。監視の目を強化した方が良いと思っています。
読んでいただき、ありがとうございました。
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