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「アクティブラーニング」を通して、AI新時代の教育のあり方を考える ――― 教育を軽視する国は、滅びの道に至る

女性

「昨日のブログを読みました。文科省は2011年に「教育の情報化ビジョン」という方針を打ち出していたんですね」

「そうなんですよ。調べてみてわかったんですがね」

女性

「2020年にはタブレット端末を1人1台、双方向授業を提起していたとのこと。これが頓挫してしまったということですか?」

「頓挫かどうかは分かりません。実現していないことは確かです」

女性

「計画されて、それが実現していないということはどういうことでしょうか?」

「いろいろな原因が考えられますが、基本的には行政だけに仕事を任せないで、国会議員が衆参合わせて800人近くいるのですから、きちんとチェックするということだと思います」

女性

「誰か一人くらい気が付いて、国会で質問でもしてくれれば全然違ってくるでしょうね」

「新聞ネタ、週刊誌ネタを専ら追いかけているようなところがありますからね」

女性

「それだと、新聞が追いかけていないことは見逃されてしまいますよね」

「何年も前に文科省や行政府が出した答申を新聞は追いかけませんからね」

女性

「だから逆に国会議員の役割が重要なんでしょうね」

「そうですね、過去から未来に向かって大きな視野で物事を見て欲しいと思っています」

女性

「特に、人材育成に関することは、ある程度長期的な展望と見通しが必要ですものね」

「一人ひとりの人間は急に成長する訳ではありません。そして、その原理を踏み外した場合は、成長が止まることがあります」

女性

「国も同じですよね」

「基本的には、同じ考え方で良いと思いますが、大きく違うのは、マイナス成長があることと、プラスもマイナスも急激に膨らむ場合があるということです」

女性

「組織の場合は、てきめんということですね」

「そうですね、そういうこともあって、どうしても関心が政治、経済の方に向いて、教育に行かないというのは、そんなところに理由があるのです」

女性

「ここからが本論です ↓」




 最近流行りの「アクティブ・ラーニング」という言葉

「アクティブ・ラーニング」という言葉が流行り言葉のように使われるようになりました主体的学習と訳したりしますが、もともとの出所は2012年の中教審答申です。従来の座学オンリーの授業形態を変えて、主体的に学ぶ能力を高め、コミュニケーション能力とプレゼンテーション能力を高めようと考えたのです。現場を知らない、学者的な発想が生み出した言葉だと思います

業界では「質的転換答申」と呼んでいるのですが、「従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修への転換が必要である」と答申は提言しています。

日本の教育は明治の「学制」(1872年)以降、西洋近代文明に追いつけ追い越せでここまで来ました。先進的な西洋科学の成果をいかに効率よく吸収するかということを考えて、教育課程が編纂されました。だから「授業」の言葉通り、黙って座って授けていただく座学が中心でしたし、特にそのことに対して何か疑問が提起されたことはありませんでしたが、その方向性をここで変えようという一つの試みだと思われます。

知識や情報そのものの価値が相対的に下がったということと、これからは他人と協働してそれらを組み合わせて、何かを産み出すことを人間が担わなければいけない。つまり、人間は考えて何かを産み出す作業に没頭して、AIとの棲み分けを図るべき時代に突入したので、教育のあり方も変えなくてはいけないということなのです

そのような考え方は分からないでもありませんが、それが何かオールマィティであるかのように使われているきらいがあります。教育実践において、何かを導入すれば絶対的に効果があると考えるのは幻想です。

「アクティブ・ラーニング」と言って調べ学習、話し合い学習を導入して無駄な時間をかけてしまうということもあります。あくまでも、一つの手段であって、効果的な場面を絶えず考えるということだと思います。

「アクティブ・ラーニングは絵に描いた餅」というのは『AI VS. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社.2018年) を著した新井紀子氏です。彼女は「高度な読解力の問題の正答率が少なくとも7割ぐらいは超えないと、アクティブ・ラーニングは無理だろう」と言っています。


彼女の意見に私も賛成です。例えば、何かをインターネット、あるいは図書館で調べるためには、問題意識がないと調べることはできません。仮に、お目当ての情報に出会ったとしても、それを読み解く力がなければダメですし、自分の文章として仕上げるための文章力も必要です。長年現場で生徒を見てきた私の感覚ですと、せいぜい高校生あたりから教科・科目と範囲限定で導入できるかなという位です。

例えば、「ロイロノート」というソフトがあるのですが、一通り授業をした後、こちらから「死刑制度の是非について」という課題を出し、300字程度で文章を書かせ、こちらに返してもらいます。そういったやりとりをタブレット端末を使って行うと、誰が早く書いたかとか、誰が多くの字数を書いたかが分かりますし、全体の進捗状況も分かります。適当な時間で区切った後、よく書けている生徒を指名して前で発表してもらいます。

時間は10分からせいぜい15分使う位です。それ以上の時間を使うようだと、授業が間伸びします。そして、多くの時間を使っても出来ないようならば、発達段階や学力レベルの点から無理ということです。

10分くらいで、中には1行くらいしか書けない生徒もいますが、多く書いた生徒の発表を聞いて、それはそれで刺激を受けることにもなります。それと同じようなことを小学校でもできるかもしれませんが、発表者がいじめの対象になるという、別のことを心配する必要が出てきます。高校生では、そういうことが原因のいじめは起きないと思います。



 教育を軽視する国は、滅びの道に至る

  現場の指導については、教員免許を取得した教員が目の前の子供たちを見て、それに見合った教育実践をすると思われます。 一行政省が、調べ学習、話し合い学習を「アクティブ・ラーニング」という名のもとに指導する暇があるならば、教員数を増やす、タブレットを配りデジタル化を進める、1学級数の定員を減らすなど、各学校の教育条件整備の努力をしたらどうかなと思います。

それから、省庁の職員の数は省令で定められていますが、国が重要視する行政府ほど職員数が多いと判断できます。本省の職員数が低いということは、発言権も少ないであろうし、国としても重要視していないと解釈できると思われます。その視点から、下の数字を見て欲しいと思います。

 

法務省   51、311人

防衛省   19、788人(自衛隊員を除く)

農林水産省 16、281人

総務省    4、604人

環境省    1、952人

文科省    1、764人  (2019年)

  この20年間で20人の文科大臣が文科省に着任しています。1年間の「腰掛け大臣」がまともな仕事は出来ないでしょう。そもそも教育と科学技術を別々にすべきなのに、それを一つにまとめ、「腰掛け大臣」を次々と着任させ、本省職員は少ないまま。これで日本の教育、さらには科学技術がよくなる訳がないと思っています。

ただ、最近はわざと日本の教育が駄目になるようにしているのではないかと思い始めています。というのは、見事に真逆のことばかりしているからです。

今年の3月には、コロナを口実に全国一斉休校を実施しました。子供たち、特に公立の小中学生は地元の学校に登校しているので、ほとんど関係ないのに休校にさせてしまいました。タブレットが配布されていないので、オンライン授業もできません。感染者の全くいない県があったにも関わらずです。

 ゆとり教育による学校五日制というのも、時代に逆行した愚策でした。ただ、駄目なことは少し立ち止まって考えれば分かることです。考えることもしなかったということでしょう。

 教科書の検定制度は、憲法の禁止する事前検閲に当たります。その制度が逆利用され、反日記述満載の検定教科書(社会科)が量産されています。そして、最もまともな教科書が反日の検定官の恣意的な判断によって「一発不合格」となっています

 教育費削減だけを目的とする学校統廃合を相も変わらず続けています。学校統廃合をすれば、通学距離は絶対的に伸びます。日本全国どこに住んでいても、歩いて1キロ以内の所に小学校が必ずあるという態勢をとる必要があります。子供の教育を受ける権利は人権だからです。ただ、文科省の発想は、まず教育経費を考えて小規模校をなくそうとします。

AIの時代だからこそ、小規模校がより多く必要なのです。ただ、彼らはその辺りは分からないでしょう。共産主義国の発想をしているからです。子供中心で考えるのが教育行政の基本ですが、その真逆で考えています

子供を大切にしない行政が、少子化を生んでいるのです

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