「アメリカと中国が対立をし始めていますが、あの様子を見ていて分からなくなってしまいました」
「何がですか?」
「だって、そうじゃあないですか。国連の存在がよく分からなくなったのです。加盟国と言っても、それぞれ関係なく自由に発言、行動しているように思えます」
「今の国連をどうすべきかということは、やがて10年後、20年後に再び議論できたら良いと思います」
「素朴な疑問です。それまでは、どうすれば良いのですか?」
「その方向性が見えていないために、国連という組織を舞台にして米中の対立が起きているのです」
「それじゃあ、何も解決しないじゃあないですか」
「いやいや、とにかく顔を突き合わせていれば、変に間違えることはないとポジティブ・シンキングでいきましょう」
「最近は米中のことがよく報道されるようになったのですが、価値観や法意識がかなり違うと思っています」
「私もそれは感じます」
「米中双方とも、会議を仕切りたいという考えの持ち主ですよね」
「仕切る人の能力、問題意識によっては、良い会議になることがあります」
「ただ、一方的に自己主張しているようでは駄目でしょうね」
「会議というのは、異なる意見を持ち寄って、一つの成案を導き出すという考え方からきています」
「仲裁に入る国がどうしても必要ですよね」
「自分の立ち位置がしっかりしていて、多くの国から信頼を得ていて、伝統文化がある国がふさわしいでしょうね」
「日本はどうですか?」
「両国に関わっているので、そうなるべきだと思いますが、重心が下がっておらず不安定ですね。両国とも、いやがるでしようね」
「ここからが本論です ↓」
アメリカのアイデンティティ――白人中心主義が日本敵視政策を呼ぶ
先日のブログの中で、アメリカの日本に対する敵視政策のことを書きました。そのような敵視政策を何故とったのかということですが、アイデンティティに照らし合わせると納得できます。アメリカという国は、プラグマティズム(実用主義)の国であり、白人優先主義の考えが色濃く、ナンバーワンで居続けることによりプライドを保とうとしている国なのです。実は、それがアメリカのアイデンティティなのです。
ただ、アメリカに限らず、どんな国でもアイデンティティがあります。だから、一つの国としてまとまっているのです。外交をする場合は、そこから派生して考えれば良いのですが、日本の政治家、特に戦後の政治家は、他国のアイデンティティを研究することなく無防備で接することが多いように思えます。
アメリカのアイデンティティに沿って、日本敵視政策の理由を見てみたいと思います。白人優先主義、つまり黄色人種である日本人に対して、根底において差別意識があると思います。1854年に日米和親条約を結びます。日本人の感覚は、これで親しくお付き合いができると考えるのですが、彼らはそうは考えません。ある目的があって、その目的のための入り口、つまり手段に過ぎないと考えるのです。こういう考え方をプラグマティズムと言います。
実際に、その4年後の1858年に日米修好通商条約を結ぶことになります。だからと言って、彼らの本音の部分に於いて、親しく付き合いたいというものはありません。まさにプラグマティズム的な思考、貿易によって利益が見込まれるためという判断がそこにはあるのです。そういった相手国の真意を読んだ上での外交を展開しなければ、相手に見下されることになります。
アメリカの白人優先主義の考えは、ロシア、ソ連といった白人の国に対して親近感をもつが故の誤った認識、さらにはそこから戦前の日本に対する戦略の誤りが生じます。
戦前、日本はロシアの拡張政策に悩まされることになります。ロシアという国は、革命によってソ連邦となり、それが崩壊して現在のロシア共和国になるのですが、拡張政策自体は止むことがなく、少なくともこの150年間は続いています。彼らのDNAの中に、遊牧民族の血が流れているのでしょう。隙があれば、本能的に他国の領土を奪い取ろうとします。
21世紀の2014年になってロシアが南部のクリミア半島を一方的に併合しました。クリミア併合の余勢を駆って、ウクライナ東部の親露反政府勢力の支援を行い、ウクライナ国軍との戦いを遂行したのです。これらの戦闘で、死者が1万人以上出たと言われています。ロシアという国は、領土に対しての執着心が極めて強い国なのです。
あれだけの広大な領土を持っているので、もういらないだろうと考えたくなりますが、そう考えるのではなく、ロシアのアイデンティティが拡張主義であり、それを貫くことが国家の存在感を示すことと考えているのだと思います。そのアイデンティティゆえに、広大な領土を抱えていると考えるのです。
そのような考えのロシアが幕末の頃から、日本近海に思惑をもちながら出没するようになります。時代は西欧列強の植民地獲得競争の時代に入っていたのです。知らず知らずのうちに、日本もその濁流に呑み込まれることになります。
日清戦争も日露戦争も対ロシア防衛戦争であった
日本にとっては、日清戦争も日露戦争も、どちらも朝鮮半島を巡り、南下政策をとるロシアの脅威を防ぐ戦争だったのです。
清は、満州(女真)民族が建国した国家で、漢民族国家ではありません。19世紀に入り清朝の力は弱まり、ロシアの南下政策を食い止める力はありませんでした。象徴的な事件はイギリスとのアヘン戦争です。外満州(現、ロシア領)を失い、末期には満州全域の権益が、ロシアの支配下となります。満州族の国は何とか存続させしながらも、満州はすでにロシアの手に落ちていたのです。
こういう状況下、日本にとって自国防衛のために、対ロシア防衛を考えざるを得なくなってきたのです。つまり、清およびその属国となっている朝鮮がきちんとしたかたちで独立していれば、ロシアは南下政策を止めると思われたのですが、とてもそういう状況ではなかったのです。
日本はまず第一段階として、朝鮮をより強固な管理下に置くことを考えました。そのためには、朝鮮独立だと考えたのです。そして、これを清にを認めさせようとし、この対立が日清戦争の原因となります。
日清戦争により、冊封体制から解かれた朝鮮は大韓帝国となります。ところが、今度は満州を支配するロシアと日本との間で、朝鮮半島を巡り対立します。交渉は決裂し開戦となります。日本にとっては脅威の対象である、真の敵との直接対決が始まることになります。
「日清戦争は、近代における日本と中国の近代の進路を決定づけ、それぞれの命運を分けた戦いでもあった」(黄文雄『「反日」歴史認識の大嘘』徳間書店2007年/58ページ)のです。その日清戦争に日本は下馬評を覆して勝ちます。清国の兵力は108万だったのに対して、日本は7万8千人だったそうです。しかも、清の北洋艦隊は当時東洋一と言われていました。どうして、そのような国に勝つことが出来たのか。
テニスの試合に例えます。勝つか負けるかは、技術×体力×精神力です。軍事力がいくらあっても、勝つ気持ちがなければ、負けてしまうということです。日本はこの戦争に勝利して、その結果「下関条約」を結びます。この結果、朝鮮半島は清国から正式に独立を承認されます。実は、ここに日本の最大の願いがあったのです。
ところが、ロシアの南下政策は止むことがありませんでした。そのため、ロシアとも一戦を交えることになります。白人優先主義の考えが色濃く残るアメリカがその結果を聞き、ナンバーワンの地位を脅かすような存在になるかもしれないということで、日本叩きに走ります。それがひとつの遠因となり、やがて両者は太平洋を舞台に戦火を交えることになります。
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