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「本質を追究しないのは日本人の特徴」(藤原正彦)―― 「武士道精神」は現代でも通じる日本人の生き方の原点

「『国家の品格』という本を知っていますか? 数学者の藤原正彦氏が書いた本です」

女性

「どこかで聞いたことがあるという感じのレベルです」

「『国家の品格』が出版されたのが2005年ですが、当時のベストセラーになり、「品格」が翌年の新語・流行語大賞に選ばれたのです」

女性

「どうして、そんなに売れたのですか?」

「それは本人でも分からないと思いますが、その書の中で彼が繰り返し言っていることは、情緒と武士道精神のことなんです。そういった伝統を守っていくべきだと言っています」

女性

「それがお国柄をつくっていくということなんでしょ」

「ただ、それだけではなく、情緒や武士道精神といったものは、論理の出発点ともなり得る極めて普遍的な価値だと言っています」

女性

「数学はまさに論理の世界だと思っているのですが、そういう方がそういうことを言うのは結構特筆すべきことなんじゃあないでしょうか」

「いえ、かつて岡潔(おかきよし/1901-78/奈良女子大教授)という数学者もさかんに情緒ということを説いていました。彼は、人の中心は情緒だから、それを健全に育てなければ数学も分からないのだと言っておられました」

女性

「私が数学が苦手なのは、情緒が育っていないからでしょうか?」

「単純に、勉強しなかったからだと思いますけど……」

女性

「ここからが本論です ↓」

 「本質を追究しないのは日本人の特徴

「本質を追究しないのは日本人の特徴である。問題が起きたときに事の本質を徹底的に問いただそうとしない。和を乱すことになるからだ。物事も突き詰めて考えようとしない」――これは、数学者であり、お茶の水女子大名誉教授の藤原正彦氏が『産経新聞』(2021.8.15日付)への寄稿文の冒頭に書かれた言葉です。本質を突いた言葉に感動を覚えた、あるいは「はっ」と思った読者もいたのではないでしょうか。

日本は農耕民族、特に稲作文化の国です。この稲作文化が「和」の精神を日本人に植えつけたと思っています。聖徳太子が言ったから広まった訳ではありません。

どういうことか。稲作にとって大事なのは、水の管理です。それは個人では出来ませんので、周りとの協力が必要です。田に水を入れるタイミングを合わせるために、田植えを合わせる必要があります。お互い話し合って全体にとってベストな日が選ばれることになります。抜け駆けは許されません。そういった何千年という列島での生活が、我々のDNAの中に染み込んでいると思います。「和を以って貴し」と聖徳太子が十七条の憲法で定めましたが、実はその時点で日本人の血肉となっていたのです。

藤原氏の視点の鋭いところは、和のネガティブな面について指摘したところです。和というと、普通はポジティブなイメージしか思い浮かびません。ただ、それはあくまでも人間としての振舞いとか生活態度の部分においてであり何かを突き詰めて考える必要がある場面においてはマイナスに作用すると言っているのです。

(「株式会社 アートバンク」)

 日本人的思考―― 「和」>「物事を突き詰める」――による外交で失敗を重ねる

日本には「臭い物に蓋をする」という言い方があります。本当は、どうして臭うのか、臭いと言ってもその度合があるので、それを分析する必要があるのではないか、さらには臭いを消す方法が他にないのかといったことを考えた方が良いのですが、そういったことはしません。中には、そこに関心を示す者がいますが、変わり者として見られることになります。とにかく、みんなが「臭い」と思っているのだから、まずは蓋をして、その臭いが周りに充満しないことが重要だろうと考えるグループが主に「政治的なレベル」において形成されます。

「政治的なレベル」というのは、我々の周りで行われている公的な話し合いのことです。その会を強力に取り仕切る人がいない場合や多数決で議決しない場合は、阿吽の呼吸によって意見をまとめる必要があります。具体的には、会社の取締役会、政府関係の審議会、学校の職員会議や町内の役員会などですが、そこでは大抵「和」>「物事を突き詰める」となります。

簡単に言えば、これが日本人的な思考なのです。そういった日本人的思考が、21世紀の国際社会で通じるかどうかという問題です。結論から言うと、無理だと思っていますし、内政問題、特に外交関係では対韓国、対中国で致命的な失敗を繰り返してきましたが、その時の日本人の政治家が何気なく使った思考パターンが「和」>「物事を突き詰める」だったのです。その場の雰囲気を優先して、決めなければいけないことを決めずに、決めなくてもいいことを決めるといったことをしてきました。例えば、日中平和友好条約を結ぶ時に、尖閣の帰属権のことを決めていれば良かったのです。慰安婦のことは決める必要がなかったのです。

そろそろ、そういった弱点を自覚して、改めて日本人的な論理の構築を目指すべき時なのです。「戦後76年、誇りを失った日本人は気づかない…」という寄稿文の中で藤原正彦氏が言いたいことは、そういったことなのです。そして、数学者の藤原氏が「論理的思考の基礎は圧倒的に国語である」(前掲論文)と言っています。我々は日本語で物事を考えますので、当然と言えば当然でしょう。そして、その出発点として、彼は『国家の品格』の中で武士道精神を主張しています。

 武士道精神は現代でも通じる日本人の生き方の原点

武士道精神というのは、簡単に言えば常に弱者の立場に立ち、場合によっては我が身を犠牲にしてでもその者のために尽くすということです。すべてそこから物事を論理的に考えろということです。とにかく出発点が大事です。その原点が狂うと、とんでもない意見が大勢を占めてしまうことになるからです。

例えば、オリンピックとパラリンピックの観客の有無については、競技の性質を考えれば原点を変える必要があります。オリンピックが無観客だからパラリンピックもではなく、支え合うことが大事から出発すれば、感染予防をしつつある程度の観客を入れて応援をするという結論が正着ではないかと思います。

それでは、原点を取り戻すにはどうすれば良いのか。これはもう、教育しかありません。自己教育学校教育、家庭教育の中で多くの偉人の話を語り継いでもらう、これが一番効果があります。そして、国語の勉強です。小説、評論文などジャンルを問わず、読書によって論理の回路は形成されていきます。言葉も覚えます。

(「アマゾン」)

 生き方の手本である偉人伝から多くを学ぶ

手許に『明治・大正・昭和…親子で読みたい 精選尋常小學修身書』(小学館文庫、2002年)があります。現代の道徳教科書と大きく違うのは、偉人の話が満載だということです。学校で使われている道徳教科書は、どの会社のものも白々しい作り話が多く、子供たちの肚の底に落ちるものが少ないと思います。人間がAIロボットのような存在であれば、教科書をプログラミングして注入すると、道徳的な行動ができるAIロボットが完成すると思います。人間の場合は、無理です。それが証拠に、道徳の授業を受けていても犯罪者は出ています。

プログラミングを注入するような感覚で教科書を作っても、効果など上がる訳がありません。そこが人間教育の難しさなのです。生き方の手本を見せるのが一番子供たちにとって分かりやすいのです。感情を伴って、理解させることが大事なのです。作り話は、感情が動かず、頭の中で理解するだけです。「嘘をついてはいけません」「いじめはダメ」「ゴミは拾いましょう」。言っていることは正しいのですが、それを呪文のように唱えても、立派な人間に育つ訳ではありません。

かつての修身教科書には、もちろん頭の中で理解させる標語的な教育の部分もありますが、偉人の話を多く紹介しています。渋沢栄一、上杉鷹山、野口英世、間宮林蔵といった有名人の話を載せる一方、伊藤小左衛門という製茶、製糸づくりに功があった方を紹介しています。こういう方が掲載されると、子供たちは有名にならなくても、一つのことをコツコツやるだけで評価されるのだと思うものです。そして、コロンブス、ナイチンゲール、ジェンナーといった外国の偉人も紹介しています。いずれも、短文で要領よく書かれています

スポーツと同じで打ち方の理屈やルールを言葉で説明されても、上達することはありません。一番良いのは、上手い人のプレィを見ることです。生き方も同じです。「百聞は一見に如かず」なのです。そして、その生き方が素晴らしければ素晴らしい程、感化されます。このように、人の心の琴線に響くような道徳の教材としては、偉人の話が一番良いのです。


ご家庭でお子さんに偉人の話を読み聞かせてあげて下さい。下手な説教よりも、効果があります。歴史の勉強にもなります、

読んでいただき、ありがとうございました。

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