「日本の危機的状況が、ますます高まっています」
「今まで、いろんな危機がありましたけどね」
「7世紀の白村江、13世紀の元寇、19世紀の幕末、20世紀の太平洋戦争ですね。それと並ぶ位の危機に直面しようとしているのが現在の状況だと思います」
「多分、日本の国民の多くは、そんな自覚はないと思います」
「その自覚のなさが、まさに今の危機状況を生み出していると思います」
「もう少し具体的に話をしていただけませんか」
「先に挙げた今までの危機は、すべて目に見えるものなんです。今回の危機は、目には見えません。敢えて言えば、イデオロギー危機です。だから、余計に厄介だと思っています」
「確かに、先に挙げられたものは、すべて戦争がからんでいますものね」
「今でも確かにそういった可能性が無い訳ではありません。そういった混乱があった時に先人たちが真っ先に考えたのが、国の在り方です。住んでいる家族を守るのは家です。同じように考えて、国民を守るのは国という家です。「国家」さえ何とか保持できれば、後は何とかなると考えたのです」
「最近は、国家ということがなかなか言えない雰囲気がありますよね」
「私は、それも危機と捉えています。歴史と伝統を忘れた民族は滅びると言った人がいましたが、日本は危ういと思っています。危機は忍び込むようにきています」
「ここからが本論です ↓」
目次
「滅亡する民族の3つの共通点」
歴史学者 アーノルド・J・トインビー(1889-1975)は、①自国の歴史を忘れた民族は滅びる ②すべての価値を物やお金に置き換え、心の価値を見失った民族は滅びる ③理想を失った民族は滅びると言っています。どれも重要ですが、一番最初に挙げた自国の歴史云々、これが一番重要だと思います。
福田恆存(つねあり)は「過去に大文明を築いた民族でありながら今日では見る影も無い姿になってゐる民族、国家は幾らもあります」(「滅びゆく日本へ」)とし、1969年にこのままでは危ういと警鐘を鳴らします。1969年というのは、東京オリンピックの5年後、まだ高度経済成長の時期ですが、彼は「ただ、このままでは滅びるだらうといふだけの事です。……その原因は何か。一口に言えば、それは私達日本人が敗戦によって私達自身の歴史、伝統を自ら否定し、意識的にそれとの断絶を計った事にあります」(同上)と言っています。
ここで彼が滅びると言っているのは、日本王朝のことです。少なくとも約2000年間続いてきた世界で最も古い日本の王朝を支える国民の意識が希薄であると感じ取ったのでしょう。国家という屋根がなければ、亡国の民となります。亡国の民の悲惨さを約2500年にわたって味わったのがユダヤ民族ですが、人権も大事ですが、雨露を凌ぐ国家という屋根を守ることを第一に考えなければいけません。
組織を支えるのは、一人ひとりの個人の精神であり、意識が支えるものです。そして、その意識がどのように醸成されるかと言えば、家庭や教育現場、社会の中に於いてです。先に紹介したトインビーの3つの条件は、突き詰めて考えれば、教育の問題として捉えることができると思います。
(「ウィキペディア」/アーノルド・J・トインビー)
ウォーギルト・インフォメーションプログラム(WGIP)の呪縛から抜け出せないでいる
ウォーギルト・インフォメーションプログラムというのは、アメリカの日本に対する占領政策の総称です。「ウィキペディア」によると、「文芸評論家の江藤淳が『閉された言語空間』(1989年)において、この政策の名称がGHQの内部文書に基づくものであると主張し、江藤の支持者らが肯定的にこの名称を使用している。しかし、この内部文書そのものは江藤らによって公開されておらず、実在するかどうか明確ではない」とあります。
ただ、戦勝国の立場から考えれば分かると思いますが、戦争に勝ったからと言って、いつまでも占領をし続ける訳にはいきません。かといって何もしないでいれば、再び日本が立ち上がってアメリカに対してチャレンジしてくるかもしれません。当然、そういったプログラム(方針)があったのでしょう。
そんな考えから関野通夫氏が明星大学の戦後教育史研究センターに所蔵されていた2万5千点の中から1945年の12月21日付でGHQ/SCAPから出された「インフォメーションプラン」というものを見つけます。この文書の各ページの上下には「Confidential/極秘」と表示されていますので、日本側には明らかにしないものとの考えがあったことが分かります。関野通夫氏という方はアメリカでホンダ関連法人の社長を務めた方で、退職後は実務翻訳の仕事をされています。これについての論文を『月刊正論』の2015年5月号に発表しています。
作家の百田尚樹氏が『日本国紀』(幻冬舎、2018年)を出版され、その中にウォーギルト・インフォメーションプログラムのことを詳しく書いていますが、簡単に言えば日本改良計画です。その計画がある程度上手くいったという判断と大陸の情勢変化ということにより1951年、日本はアメリカなどの連合国と講和を結び、国際社会に復帰をします。政治的には独立したものの、精神的な独立がなされないまま現在に至っています。
歴史教科書は単なるカタログ教材、道徳教科書はプログラム教材になっている
歴史を学ぶのは、何のためなのか。何年に何があったかを断片的に知ることが主な目的ではありません。日本の歴史を学ぶことによって、過去の日本人たちがどのような考えや思いでこの国を創ろうとしたのかを知ることが大事なのです。そして、道徳の教科書は歴史上の偉人を多く扱う中で、日本の歴史を立体的に捉えるようにさせることが大事です。そうすれば、そこに自分の生き方を重ね合わせることが出来、自分の生き方を具体的に探すきっかけにもなるからです。
そのように、歴史と道徳をタイアップさせて考えることが大事なのですが、現状はそうはなっていません。道徳の教科書は各社とも、人間をまるでAIロボットであるかのような捉え方で、「プログラム注入主義」に陥っています。どういうことか、「いじめはだめ」、「友達に親切に」、「整理整頓できたかな」など言っていることは間違っていませんが、考え方の根底に一つひとつの道徳の単元を理解させれば、それで道徳的な人間に育ちあがると考えているのです。
実は、そこが浅はかなところです。AIロボットであれば、完璧な道徳人間が完成するのですが、残念ながら人間はそうはならないのです。何故なら、人間と言うのは、機械よりさらに複雑な生き物だからです。そこが実は教育の難しさなのです。
社会全体が教育が二の次となっているため、子どもが脇に追いやられています。少子化の根底には、そういったことも影響を与えています。政府は「子ども庁」を今秋に創るとのこと。今一歩不安な気持ちを持っていますが、子ども庁の創設とともに子どもを社会の中心に据える、それとともに教育に力を入れて人材開発に真剣に取り組むことが21世紀の日本に求められていることです。
(「ラクマ」)
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