「前回のブログの『違和感』の話、興味深く読ませていただきました」
「日本も中国、そして西洋はそれぞれ別の価値観にもとづいて歴史を織りなしています。よく考えれば当たり前のことなのですが、その違いについて余り意識していないのではないか、もう少し中国の懐に入って彼らの価値観がどのように形成されたのか、見る必要があると思っています」
「今までは、そういった問題意識がもたれなかったのですか?」
「個人的に研究された方がいると思いますが、大きな流れにならなかったと思います。『中国研究は、まだ本格的には手をつけられていない未開拓の分野』(『国民の歴史』212ページ)と、西尾幹二氏は指摘しています」
「素朴な疑問ですが、中国は王朝交代が頻繁にありますよね。今の共産党政権は100年前です。統治をする民族も交代しています。それで価値観が受け継がれていくものなのですか?」
「良い質問ですね。結論から言うと、受け継がれているというのが私の答えです」
「日本は一つの王朝として有史以来連綿と続いているので分かるのですが、王朝が途切れたのにどうやって受け継いだのですか?」
「結果的に受け継がれているということです。それでその理由を探したところ、民族のDNAによって受け継がれたと説明するしかないだろうというのが、私の現在の到達点です」
「よく、国柄という言い方をしますよね。構成メンバーは変わっても、その国のカラーは変わらないということでしょうか?」
「ソ連が崩壊してロシア、カンボジアのポル・ポト政権が崩壊して現在のフン・セン政権になったのですが、2018年に彼の率いる人民党が一党支配を実現しました。政権のカラーや配役は変わっても、不思議と同じような国柄になります。半島の民族もそうです。江戸時代の通信使が書いたものが遺っていますが、今の韓国の人たちと感覚的によく似ています」
「中国ですが、彼らに対して人権とか、民主主義という観点から批判しても、びくともしませんよね。そして、自分たちのルール、考え方に基づいてやっている、内政干渉だ、というような言い方で堂々と反論しますよね」
「中国は統治の原理は、韓非子が説いた法家思想、民衆に対しては儒家思想というのが西尾幹二氏の見解です」
「その辺りを具体的に見ていくことにします。ここからが本論です ↓」
中国の都、長安に城壁を作ったのは、何故か?
日本の国づくりは、家族主義の延長として考えられたことを前回のブログで書きました。それに対して、中国の民衆は皇帝にとって支配する対象と考えます。地域に自治的なムラを作らせるという発想はありません。変に許せば、それが拡大して皇帝の権威や権力を揺るがすことになると大変だからです。
そういった考え方は、中国の城壁作りに現れています。唐の都長安と奈良の平城京の大きな違いは、周りの城壁があるかないかです(下のイラスト参照)。中国は城壁によって町を囲ったのですが、それは「都城は外に向けては国内統治の拠点として機能するとともに、内に向けては、天子を中心として支配集団を編成する場所であった。……中国の城郭には人々を囲い込み、そこに居住せしめ、そしてそれによって支配の安定を図るという一貫した思想がある」からです。
それでは、なぜ日本の平城京には城壁がないのか。簡単に言えば、民衆支配という感覚がなかったからです。百姓は「おおみたから」ですし、自分たちで自治的にムラを運営している。大きな家族の一員を囲う必要はないだろうということです。
(「旅のそら~西安」)
法治主義を唱えた韓非子――その1
「中国は、古くから儒家と法家の二輪立ての法意識で秩序を保ってきた」(西尾幹二、前掲書/223ページ)のです。法家の教えは法治主義ですが、ヨーロッパの国々が法治主義守れと言うと、それに対して中国は我々の法治主義の考え方があると言います。同じ法治主義でも、出てきた時代背景や守るべき権益が全く違います。
法治主義を唱えた韓非子(?~前233)が遺した例え話がありますので、それを紹介します。ちなみに、韓非子の書いたものを感激して自国の統治の原理としたのが秦の始皇帝です。
秦の昭王が病気になったそうです。それを聞いた人民は、王の病気回復を願って牛を生贄(いけにえ)にしたそうです。ここで、クエスチョンです。この人民はどうなったでしょうか。日本であれば、単純に感謝して終わりですが、韓非子の法治主義はそうは説きません――それを聞いた昭王は、とんでもないということで罰として鎧を2つ供出することを命じたそうです。
大事なのは理由ですが、その病気平癒を願っての生贄に心を打たれて、もし法令を緩和するようなことがあれば、法令の威厳は無くなり、国は滅びることになるだろう。だから、この場合はその人民に罰を与え、統治を守ることが最善の途であるとしています。
(「You Tube」)
法治主義を唱えた韓非子――その2
次のクエスチョンです。韓の昭候が宴席の酒に酔ってうたた寝をしてしまいました。側にいた冠役(かんむりやく)が気を利かして上着を掛けてあげたのです。このことを昭候は大変喜んで誰が掛けたのかと聞きます。冠役がかけたということを聞いた途端に、彼は冠役と衣服係の2人を処罰したのです。どういう理由でしょうか、というのが次のクエスチョンです。
衣服係を罰したのは、職務怠慢が発覚したからです。ただ、ここまでは何となく分かります。どうして冠役を罰する必要があるのかということです。罰した理由は、他人の職務を横取りしたという理由です。昭候の健康を案ずるよりも、法の威厳を守ることの方が、はるかに重要な価値をもつと考えるからです。
簡単に言えば、余分なことをするなという教えです。
秀吉は信長に草履取りを命じられて、信長のために懐に草履を入れて少しでも温かい草履を履いてもらおうとしたのですが、韓非子の法治主義の考え方によると、処罰をされるかされないかギリギリの行為だと思います――懐に草履を入れて温めるということは、織田家のきまりに一言も書かれていない、それを破っての行為であるし、主君信長がその行為に感激して、きまりにない行為をした者を褒めたりすれば、法の威厳が無くなってしまう。そのように考えれば、とんでもない行為、死罪に値する行為であるが、秀吉は百姓上がりで無知であるが故に、今回は大目にみることにしよう。これからは、法に従って、忠実に行動せよ、という判断となるでしょう。
(「ガバガバ歴史速報」)
法治主義が現在の中国にまで受け継がれている
これが彼らの法治主義の考え方です。西洋の法治主義は、判断基準に人権を入れます。日本であれば、そこに情を入れるでしよう。中国の法治主義には、そういうものはありません。この考え方は、今からはるか2000年前の考えなので西洋の法治主義よりも優れているといわざるを得ないと彼らは考えるでしょう。この自信が、何を言われても動じない態度に表れているのです。
そして、そういった考え方が、現在の共産党政権に受け継がれています――党機関紙の人民日報によると、習近平氏が「共産党員にとって、好人物は本当に良い人物とは言えない」(2021.9.13)と論評したとのことです。それを報道したメディアは、「好人物」発言で習氏が具体的に何を念頭に言及しているのか、今のところ分からないとしていますが、今から2000年前に韓非子は実例を示して説いています。相手のことを思って、そっと上着を掛けてあげる人のことです。そのように、情にほだされて行動してしまう人のことです。厳に慎めと言っています。「世のため、人のため、みんなのため」という考えは、ダメということになります。実は、これが日本の先人たちが抱いた「違和感」だったのです。
ヨーロッパでも中国のこのような思想研究は殆どなされていないでしょう。現在は、お互い違ったモノサシを持ちながら論争しているような状況です。論点が嚙み合っていないのは、持っているモノサシがそれぞれ違っているからです。
(「ameblo.jp」)
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