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『三国志』の時代――権力闘争がその後の中国の「伝統」になる / 『韓非子』の「大体(だいたい)篇」に理想の統治のあり方が示される

女性

「今の中国が法家思想に基づいた統治を行っているということを聞いて、驚くと同時に、変に納得してしまいました」

「時代が変わっても、中国は常に皇帝政治を実践してきました。今の共産党政権も実際には皇帝政治です。これから、ますますその傾向が強く出てくると思います」

女性

「昨日おっしゃっていたように、やはり頭の中は戦国時代ということでしょうか」

「周りの国を囲碁の白と黒で見ていると思います」

女性

「どうやって、すべて黒にしてしまうかということですか?」

「彼らの価値観からすれば、自分たちは『白』だと思っています。TPPの申請をしましたが、完全な権謀術策です。そんなことばかり考えていると思います」

女性

「ところで、秦ですが法家思想を採用して、強大な帝国を作り上げたのに、始皇帝が亡くなった後あっけなく滅亡しています。私も実際に万里の長城を見ましたけど、あれを建造できる力はすごいと思いました。政王も自分は普通の王ではない、皇帝だと名乗ったのでしょ。それほどの国がどうしてと思ってしまいます。世界史の教科書を読んでも、表面的な理由しか書かれていません」

「教科書には、急激な統一政策と対外戦争、土木工事の負担が人々を苦しめ、始皇帝の死後に各地で反乱が起きて秦は統一後15年で滅んだ、とあります」

女性

「各地の反乱くらい鎮める軍事力があったと思います。読んでも謎が深まるばかりです」

「私の見方は、法家思想の弱点が出てしまったからというものです」

女性

「法家思想の弱点、ですか?」

「法家思想というのは、権力によって人民を抑え込むためには大変有益な手法です。ところが、その持っている人間観ゆえに、統治をする主体側がバラバラになってしまうのです。組織はヘッドが崩壊した途端に破滅に向かいます。同じ理屈です。始皇帝という強力なヘッドが無くなり、後継ぎの中でその役割を果たす人物を充てればよかったのですが、それが出来なかったということです」

女性

「それで急速に滅亡に向かったということですね。詳しくは本論を読んで下さい ↓」

 

 『韓非子』は故国「韓」のために書かれたもの

『韓非子』はあくまでも、王が強力な権力をいかに使って、国を統治し切るか、さらには他国をいかに屈服させて中国全土を支配するか、さらにはそれを永続するためには何をどのように注意すれば良いのかという発想で書かれたものです

韓非は秦の隣国の韓の出身です。戦国の七雄という言い方をされますが、韓はその中で最も弱小国だったのです。故国を何とかしなければいけないということで、韓王に何回か建言を試みたようですがそれを受け入れてもらえませんでした。それで、故国が秦にやがて併合されるであろうことを予測して、自らの思いを書き留めたのが『韓非子』として我々が手にしている著作です。秦と韓は、見方を変えれば、今の中国と日本の関係なのかもしれません。

 韓非は自分の生まれ故郷の韓のために『韓非子』を書くのですが、皮肉にもそれを大いに評価したのが秦王政(後の始皇帝)だったのです。政の招きもあり韓非が秦に韓の使いとして行くのですが、同門の李斯(りし)によって自殺に追い込まれてしまいます。才能を妬まれてしまったのです。李斯は『韓非子』のアイディアだけを頂戴します。

(「歴史百科」)

 『韓非子』の「大体(だいたい)篇」に理想の統治のあり方が書かれてある

『韓非子』について、「まことに鋭利、周到である反面、統一国家のあるべき姿の豊かな構想や、人民大衆に対する具体的政策には、やや欠けるところがあったといえよう」(「韓非子の思想」『韓非子』学習研究社、1992年、23ページ)との指摘がありますが、そういう状況になる前に死んでしまったので、それは土台無理な注文なのです。

彼の才能であれば、始皇帝が完全に権力を掌握した後に、どのように統治すべきかということを進言できたと思います。歴史に「たら、れば」はご法度かもしれませんが、敢えて使わせて下さい。とにかく予期しない余りに早い死であったし、それは秦の運命、さらには中国のその後に興る帝国の運命をも変えてしまう程大きな出来事だったと思っています。そして、彼の命が長らえていれば、法家思想の内容すらも変わっていた可能性があるのです。

『韓非子』の中に「大体篇」という章があります。老子の思想的影響を思わせるような内容となっています。彼が書いたのではないと言われていますが、いずれにしても法家の関係者が書いたことは間違いありません。これを読むと、彼には秦が天下統一した後も生きていて欲しかったと思わざるを得ません。

 「大体篇」は格調高い文章で、性悪説の立場からではない統治者の在り方について言及しています。その一部を紹介します――「上に立つ者が天のように無私でなければ、下にいる者はあまねく覆われるわけにはいかず、また、その心が大地のようでなければ、万物のすべてを載せきるわけにはいかない。太山(ママ)は土や石を好き嫌いしないからこそ、あのように高くなることができ、揚子江や海は、わずかの助けになる細流をえり好みしないからこそ、あのような豊かになることができた。だから、大人は天地と一体となることで、万物を備え、太山や江海と心を一つにすることで、国家を豊かにするのである。……永遠の利益が積み重なり、大きな手柄が立てられ、名声は生前に揚がり、恩沢(おんたく)は死後に伝わることになる。これこそ、最上の治世なのである(『韓非子』(上)中公文庫、1992年/440-441ページ/下線は引用者)。

引用が長くなって申し訳ありませんが、法家思想に対する今までのイメージとは違うと思ったのではないでしょうか。そして、韓非子の思いは究極的には、ここにあったのではないかと思っています。彼がもう少し生きていれば、この「大体篇」を敷衍(ふえん)した内容のものを皇帝に上梓したと思います。

(「note」)

 権力闘争がその後の中国の「伝統」になる

そもそも、統治する側が性悪説で相手を見ている様では、陰謀渦巻く宮殿となってしまいます。聡明な彼は、そんなことはすべて分かっていたのです。ただ、現実は、彼が恐れた通りに動くことになります。李斯(?—前208)は『三国志』の中の「李斯列伝」に登場する人物です。韓非子とは荀子のもとで共に学んだ同窓だったのですが、先の案内の通り、李斯は毒薬で韓非子を自殺に追い込んでしまいます。

その後、李斯は丞相として秦の天下統一とその統治において尽力することになるのですが、天下統一の11年後に始皇帝が巡幸中に死去してしまいます。ここで登場するのが宦官(かんがん)の趙高です。始皇帝の側近として、始皇帝の身の回りのことを世話する役割を担っていました。始皇帝が死して、次の後継ぎを決めなければいけません。始皇帝には長男の扶蘇(ふそ)がいたのですが、趙高は末子の胡亥(こがい)の家庭教師でもあり後見人だったのです。皇帝の器を考えると扶蘇だったのですが、趙高は自分の出世栄達のため遺言状を偽造して扶蘇を自殺に追い込み、李斯と図って胡亥を次の皇帝にしてしまいます。

趙高の謀略の手はそこで止まりませんでした。趙高は二世皇帝の胡亥と謀って,政敵を次々と抹殺していきます。始皇帝には20数名の子供がいたのですが、皇帝の胡亥を除いて結局全員殺されることになります。また、胡亥の姉妹の関係者たちも磔(はりつけ)にされて殺されます。

そうしているうちに秦の治世に対する反乱の火の手は拡大するばかりですが、ほとんど関心を示さず対策も立てません。何とかなると思ったのでしょう。さすがに李斯は皇帝にその対策について進言をします。趙高はそれを逆手にとって、李斯と一族全員刑場に引っ張り出して斬殺してしまいます。

趙高はこのようにして最高権力を手にしたのですが、それを手にした時は、秦は帝国としての命脈が尽きようとしていたのです。凄まじいまでの権力闘争は、その後の中国の「伝統」となり、権力を握った者は前の政権の関係者と親類縁者を皆殺しにするようになります。

(「Mercari」)

自民党の総裁選を権力闘争と表現する人がいますが、総裁選で破れたからといって命が無くなる訳ではありません。こういうのを権力闘争とは言いません。権力闘争がないので、派閥(グループ)に分かれ、一つにまとまるために党内選挙をしているのです。共産党は党内選挙をしません。それは権力闘争が日常的に行われているからです。中国では、習近平の対抗馬は彼が生きている間は出て来ないでしょう。北朝鮮で金正恩の対抗馬が現われたという話は聞きません。何故か、それは水面下で権力闘争が行われていて、反抗の「芽」はその都度摘み取られているからです。日本共産党の場合は、除名で外に追い出してしまいます。そうでなければ、同じ人間が20年以上にわたって委員長として君臨できません。

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