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コミュニティー・スクールが動き出して約10年――子供たちは相変わらず「脇」に置かれたまま

女性

「ウチの子供の通っている学校からお便りをもらったのですが、コミュニティー・スクールになったと書かれてありました」

「今の流行りというか、流れですよね。教育委員会によってはパンフレットを独自に作成する等、意欲的に取り組んでいるところもあります」

女性

「私は全然知らなかったのですが、先進的な地域ではもう10年近くの活動実績があるとのことです」

「法的には2004年6月に地教行法という法律を改正して、学校運営協議会を制度として導入しました。それがコミュニティー・スクールです」

女性

「お便りの中で、学校運営協議会の委員募集とあり、自薦、他薦構いませんので立候補して下さいとありました」

「立候補したらどうですか?」

女性

「そういう難しい名前の委員は私には合わないと思います。ところで、PTAの役員と、どう違うのですか」

「そもそもPTA自体が法的な裏付けのない任意団体です。文字通り、親と教員との親睦を兼ねた連絡、調整会議ですが、学校運営協議会は一応法的根拠をもった組織です」

女性

「学校運営協議会の方が「格」が上というイメージなので、両雄並び立たずのように見えます」

「いえ、両雄並び立っても良いというのが、文科省の判断ですね。PTAで出た意見を学校運営協議会に反映させて欲しいと言っています」

女性

「随分、前のめりというか、積極的な印象を受けますが、であれば単純に教育権限を地方の教育委員会に移せば良いと思いますけど……」

「それは、したくないんでしょ。権限は手元に残しながら、教育の活性化を現場の教育関係者の力で成し遂げたいというのが文科省の考えだと思います」

女性

「その試みは、上手くいくのでしょうか?」

「それは今後の展開を見なければ分かりませんが、個人的には厳しいものがあると思っています」

女性

「その辺りのことは、理由も含めて本論で述べて下さい」

日本の子どもは脇に追いやられたままになっている

コミュニティ・スクールというのは、保護者や地域の住民の教育意思が学校運営に反映された学校のことで、1930年代のアメリカで起きた考え方です。それが、戦後の日本に地域社会学校というかたちで持ち込まれたもの、というのが一般的な説明ですが、そこには、プラグマティズムの立場から民主主義社会に適応した学校教育の改革を提唱したデューイ(1859-1952)の影響が多分に見受けられると思っています。

「学校はいまや、たんに将来いとなまれるべき或る種の生活にたいして抽象的な、迂遠な関係をもつ学科を学ぶ場所であるのではなしに、生活とむすびつき、そこで子どもが生活を指導されることによって学ぶところの子どもの住みかとなる機会をもつ。学校は小型の社会、萌芽的な社会となることになる。これが根本的なことであって、このことから継続的な、秩序ある教育の流れが生ずる」(デューイ『学校と社会』)。

デューイはその書の中で、地動説を唱えたコペルニクスに準えて、従来の教育が重力の中心を子ども以外に置いていたので、その中心を子どもに戻す必要があると言っています。地域の中に学校を位置付けることにより、子ども中心主義の教育が完遂すると考えていたようです。

子ども中心主義、古くて新しいテーマです。日本では、子どもは常に脇に追いやられています。教育現場においても、教育行政の分野においても、子供たちの意思を制度的に汲み取ろうという動きすらありません。日本の子供たちは、上から与えられたモノを受け身的に吸収する存在として捉えられています。公立、私立を問わず、何かそれが当たり前的な雰囲気が日本の教育界を覆っています。

(「Nagaitoshiya.com」)

 コミュニティー・スクールの淵源は、江戸期の教育の中にもある

近代教育が成立する以前の日本の江戸期の教育をつぶさに調べると、そこには地域の中で子供たちが知的にも人間的にも育まれていた痕跡を探し出すことが出来ます

会津藩の日新館、土佐藩の教授(こうじゅ)館、薩摩藩の郷中(ごじゅう)教育や、各地の私塾や寺子屋など、実に多彩な教育が行われていたことが分かっています。寺子屋は文部省の『日本教育史資料』によると、全国で15,560校あったことが確認されています。設立は江戸後期から幕末期が圧倒的に多く、1校当たりの平均人数は約60名という数字が分かっています。それに学校数を掛ければ、約93万人の数の子供が寺子屋で学んでいたことが分かります。当時は、教員免許制度がありませんので、地域の様々な職種の大人たちがいろいろな形で関わったと思われます。この状況は見方を変えれば、コミュニティー・スクールの萌芽的な動きと言えなくもありません

データがないので推測でしか言えませんが、子供たちに何にどの位の時間を掛けて教えるか、それを誰が担当するかといった打ち合わせが当然あったと思われます。現代で言うところの地域協議会も成立していたことでしょう。

(「www.ac-illust.com」)

 コミュニティー・スクールの本格的胎動期に入った

明治期に入って、近代教育制度のスタートとともに、そのような地域での教育営為は無くなったものの、それまでの実践と評判が人口に膾炙(かいしゃ)されていき、地域教育の一つの土壌を形成され、それが連綿と現代にまで繋がっていると考えても良いと思います。

時代を経て1987年に臨時教育審議会第三次答申が「学校の管理・運営への地域・保護者の意見の反映等……開かれた学校経営の努力」を提言し、さらに1996年の中教審第一次答申は、学校、家庭、地域社会の連携を重視します。そして2年後の1998年で地域住民の学校運営の参画のための具体的方針として学校評議員制度を提言することになります。

それを受けて2004年6月に「地方教育行政の組織並びに運営に関する法律」の一部改正がなされ、学校運営協議会が制度として導入されます。さらに2017年3月には「地教行法」の一部改正により学校運営協議会の設置を教育委員会の努力義務としたのですそのようなこともあり、コミュニティ・スクール指定校は全国7601校(2019、5.月現在)まで増えることになります。

ただ、日本は文科省を頂点とした中央集権的な教育体制をとっている国ですが、どうして原理的に真逆のコミュニティー・スクールを推し進めようとするのか。また、コミュニティー・スクールを増やせば、教育現場の様々な問題が解決の方向に向かうと考えているのか。

現実は、そんなに甘くはないと思います。その辺りを今後検証していく必要があるでしょう。

(「本別町」)

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