
「NHKの朝ドラ『あんぱん』見てますよね」

「木曜日の放送でしたっけ。崇(たかし)と弟の千尋(ちひろ)が料理屋の一室で対面してやりとりする場面がありました。あの時は、泣けましたね」

「2人とも、圧巻の演技だったと思います。千尋役の中沢元紀さんがあの場面を常に頭において役づくりをしてきたと言っていました。テスト撮影の時は、千尋は大泣きだったそうです」

「そうなんですね……。今にも泣き出しそうでそれをぐっとこらえて心の底から吐き出すように言っていました。千尋の無念な気持ちが伝わってきました」

「「愛する国のために死ぬより、愛する人のために生きたい」。シナリオライターは、これを言わせるためにあの場面を用意したんでしょうね」

「良いセリフだと思います。当時の誰もが思っていたことだけど、誰も口に出来なかったことです」

「そうですね。気が付いたら、そういう社会になっていたというのが、当時の人の実感だったでしょうね。今日とその次のブログで、そのあたりのことを書いていきたいと思います」

「このブログを読んでいる方で、まだ『あんぱん』をまだ見ていない人がおられたら、見て下さい」

「今は1944年頃です。崇が陸軍伍長として、中国の福建省に派遣されたところです。これからも見どころが充分あると思いますので、是非見ていただき、私たちと問題意識を共有できればと思います」

「ここからが本論です ↓」
「五箇条の御誓文」と戊辰戦争の実態
明治維新を高く評価する人々の多くは、「五箇条の御誓文」を手放しで称賛し、戊辰戦争の実態については批判的に検討しようとしません。しかし、この御誓文は戊辰戦争のさなかに発布されたものであり、極めて政治的な意図をもった文書でした。薩長を中心とする藩閥勢力が、天皇の権威を取り込むために利用した象徴的な文書にすぎないのです。
御誓文の中には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と記されていますが、実際には意見の異なる勢力を武力で排除するという行動に出ており、その理念と行動の間には大きな乖離がありました。
星亮一氏の『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)では、1868年8月23日、会津若松で起こった惨劇を描いています。薩長土肥の連合軍は、会津兵のみならず、町人や百姓、老若男女を区別なく斬殺し、町は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄と化しました。少年白虎隊の悲劇は広く知られていますが、その遺体の埋葬すら藩閥側は許しませんでした。
『会津戊辰戦争』という地元史書によれば、藩閥軍は強姦や略奪行為にも手を染め、土蔵を爆破して金品を奪い、婦女子を妾にし、家財道具を売却するなど、到底「官軍」とは言えない行動を繰り返しました。こうした記憶は、子や孫の代にまで語り継がれ、今なお会津と長州の間には真の和解がなされていないのではないでしょうか。やがて藩閥政府は徴兵制を導入し、軍隊を創設していきますが、このような暴力と収奪のDNAは組織の中に深く残されていくことになります。
(「THE GATE」」)
「明治の夜明け」の実像——模倣と喪失
百田尚樹氏は著書『日本国紀』において、ある章を「明治の夜明け」と題しています。明治維新を肯定的に捉える人々は、明治政府の近代化を礼賛する傾向がありますが、それは単なる西洋文明の模倣にすぎませんでした。
むしろ幕府は、日本独自の近代化を模索していました。いわゆる「鎖国」は完全な閉鎖ではなく、オランダや中国との交易を通じて西洋の知識や技術を取り入れていましたし、パリ万博に出展し、留学生を海外に派遣するなど、すでに開国的姿勢を持っていました。
本来、日本は独自の伝統と文化を大切にすべき国です。急激な西洋化は社会の混乱を招き、生活の基盤を根底から変えてしまう危険性を孕んでいました。歴代の為政者たちは、外来文化にフィルターをかけて受容するという知恵を持っていましたが、藩閥勢力はその調整を放棄し、一気にバルブを開放してしまいました。その結果、自らも帝国主義の波に呑み込まれていったのです。
四方を荒海に囲まれた日本は、他国からの侵略を受けにくく、長きにわたる平和を享受してきました。その中で培われた伝統文化を守ればよかったものを、わざわざ軍隊を創設し、国境を越えて戦争を仕掛ける国家へと変貌してしまいました。その出発点が、明治維新だったのです。果たしてこれが「夜明け」と呼ぶにふさわしいのでしょうか。
(「You Tube」)
断絶と暴力による「夜の始まり」
幕末の日本には、各藩に城があり、刀を持つ武士がその地域を守る体制が整っていました。周囲は荒海に囲まれており、欧米列強はこのような地理的・軍事的条件の国を、植民地にするのは困難であると早期に判断していました。だから彼らは通商条約を結び、経済的な関係構築に踏み出したのです。日本には植民地化の危機など、なかったのです。
危機を言うならば、連帯を考える必要があります。帝国主義の時代において最も大事なのは、隣国との信頼関係であり連携です。朝鮮半島は、有史以来、日本と深い関係を築いてきました。古代には東北地方よりも頻繁に交流があり、言語的にも日本語と同じように最後に動詞をもってくるなど、文法的に共通点が多く、同じウラル-アルタイ語族としての連帯意識もあったと考えられます。国境意識も今ほどない時代なので、半島の言葉を方言のようなものとして捉えていたと思われます。
仏教の伝来をはじめ、建築や織物の技術など、朝鮮から日本が学んだものは多く、江戸時代にも通信使の来日を通じて交流が続いていました。それを受け継げばよかったにも関わらず、明治政府はまず岩倉使節団を欧米諸国に派遣し、朝鮮を軽視する態度を取りました。その象徴が1875年の江華島事件です。日本は挑発行為を行い、武力で朝鮮を開国させたのです。真逆のことをしたのです。
「明治の夜明け」と称されるその出発点は、むしろ断絶と暴力による「夜の始まり」だったのではないでしょうか。やがて、「愛する人のために生きたい」という当たり前の言葉すら言えない国に変貌していくのですが、最初の一歩が間違っていたのです。
(「X」)
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