
「百田尚樹氏と有本香氏の共著の『日本保守党』という本があります。この本と百田氏が書かれた『日本国紀』に基づいて批判的検討をしたいと思います」

「保守とは、何かということについて、どのようにおっしゃっているのですか?」

「「保守は伝統や文化や国体をしっかり残していこうと肯定する」と言っています」

「特に問題がないように思いますけど……」

「前にも言ったのですが、伝統や文化、さらには国体が具体的にどの時代で形成されたのかということです。そのことを、どのように考えているかが問題なのです」

「一番問題なのは、明治以降の時代だと言いたいのでしょ?」

「そうですね。日本の伝統や文化は律令の千百年間でほとんどのものが形成されています。明治の藩閥政府は破壊者として立ち現れます」

「お城や寺が破壊されたそうですね」

「1873年に廃城令が出され、多くの城が破壊されたり、民間に払い下げられたりしました。それがなければ約300の藩がありましたので、それだけの数の城が現存していたことになります。百田氏も「惜しみてあまりある」と書いています」

「もったいなかったですね。廃仏毀釈は習いましたが、お城のことは知りませんでした」

「廃仏毀釈は地方によって受け止め方が違っています。一番凄まじかったのが薩摩藩の鹿児島県です。ここは徹底的に廃仏毀釈を行い、1066の寺院がすべて廃寺になりました。そんなこともあり、鹿児島県は寺院の数が少ないですし、仏教文化に関する文化財が殆んどありません」

「長州の山口県もそうなんですか?」

「鹿児島ほどではありませんが、ここも多くの仏教寺院が廃寺になったり、神社に変更したりしました」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「日本保守党」提供です」
パリ万博と「鎖国」イメージの誤解
江戸幕府を倒して成立した明治藩閥政府は、前時代の全否定から出発しました。特に「鎖国」という言葉に象徴されるように、江戸時代は外国と断絶していた閉鎖的な時代というイメージが作られました。しかし、実態は異なります。江戸幕府は無批判な西洋模倣を避けるため、交易相手を選別し、長崎の出島を通じて限定的に国際関係を維持していました。オランダとの交易を通じて、西洋の学問や技術を積極的に取り入れていたのです。
その象徴的な出来事が、1867年のパリ万博への参加です。幕府は徳川昭武を団長とする使節団を派遣し、外交官・通訳・医師・留学生など総勢33名が加わりました。薩摩藩や佐賀藩もそれぞれ独自の使節団を派遣し、薩摩藩は独立国のように振る舞いました。日本展示館では薩摩焼、漆器、扇子、焼酎など約400箱分の産品を出品し、着物姿で茶を入れる日本女性の姿が「ジャポニズム」の興隆のきっかけとなったとも言われています。
このように、幕府や藩は積極的に西洋に働きかけをしようとしており、海外への留学生も送り出しており、決して閉鎖的な「鎖国」のみで語るべき時代ではありません。ちなみに、歴史学の世界では鎖国は死語ですが、いまだにその言葉を使っている教科書があります。何のための検定なのかと思っています。
(「nippon.com」)
天皇の「シラス」者としての役割と律令制度
百田尚樹氏の著書『日本国紀』では「万世一系」や国号の由来については触れられているものの、天皇の本質的役割である「シラス者」としての位置づけが語られていません。この点にこそ、近代日本の統治思想の根幹があるのですが、彼はそれを理解しているとは思えません。
天皇が単なる権力者として登場するのは初期の話であり、最後の権力者天皇とされるのが天武天皇です。彼は壬申の乱(672年)で大友皇子を討ち、内乱を経て国家統治の安定化を模索する中で、権力と権威を分離する体制として律令制度を構築しました。政治を執る太政官と、神事を司る神祇官に分け、天皇は後者に立って「シラス者」として国の権威者として君臨する立場となったのです。いわゆる「二官八省」体制の始まりです。
その後は、平清盛や豊臣秀吉、徳川家康といった有力者であり権力者たちが太政大臣として任命されることになります。それは同時に、権力者と天皇が争そうことなく手を携えて統治を行う道を開いたことになりました。日本における統治体制の核心は、「権力」と「権威」の分離体制、つまり「二人三脚」で日本を統治する態勢にあったのです。
(「ことのはそだて」)
明治政府の天皇利用と『日本国紀』の限界
明治政府の本質は、実際には薩長による独裁政権でした。天皇はその権威を利用される存在であり、その典型が「五箇条の御誓文」です。これは戊辰戦争中に諸藩の支持を得るために急遽発布された政治文書で、15歳の明治天皇にそのような意志があったとは到底考えられません。実際の起草者は、由利公正、福岡孝弟、木戸孝允といった人物です。
「広ク会議ヲ興シ…」という文言とは裏腹に、政権獲得後の薩長政権は、奥羽越列藩同盟を掃討し、反対勢力を力で抑え込みました。このような天皇の権威の政治利用は以後も続き、教育勅語や軍人勅諭といった形で制度化されていきます。日清・日露・太平洋戦争と進む中で、天皇は表向きの「開戦詔書」の署名者であっても、実際には天皇はすべての戦争に反対でしたが、その意見はことごとく無視されました。
百田氏の『日本国紀』は、こうした天皇の権威と権力の歴史的ねじれには言及せず、むしろ自民党保守派と同様の立ち位置に立ち、歴史を単純化しています。その思想的延長線上に日本保守党があることも見逃せません。
(「THE GATE」)
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