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明治維新考(1) ―— 歴史の基軸をどのように設定するか / 明治維新が革命かどうかという空虚な議論

  • 2024年4月16日
  • 2024年4月16日
  • 歴史
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女性

「時間というものは面白いもので、頭をリセットする働きを持っています。その時の熱気を拭い去ってくれるのですね」

「どうしたの、突然に。何かあったのですか?」

女性

「中学校の同窓会で10数年振りに旧友と会ったのが1週間前です。その日の夜は気が高ぶって眠れなかったのですが、今はそれがまるで遠い過去のことのように思えてならないのです」

「夢で見ただけじゃあないの?」

女性

「それはないのですが、そんな感じです。興奮し過ぎたのかしらと思っています」

「人間は感情の動物で、その感情の高まりによって正しく物事を判断できないこともあります。実はそれは歴史上の人物や歴史事象の見方でも、同じことが言えます」

女性

「大谷選手の通訳だった水原氏を題材にした教科書会社があったそうですが、現在進行形の人物評価は難しいということですね」

「司馬遼太郎氏が言っていたと思うのですが、歴史上の人物は没後、最低100年くらい経たないと書けないそうです」

女性

「それは、どうしてですか?」

「人物評価について、ある程度定まるのに、その位の年数が必要なのと、直接の関係者が存命の場合は書きにくいと言っていたと思います」

女性

「いろんな見方があるからでしょうね。人物だけを見て書く訳にはいかないですものね」

「時代評価と人物評価。2つのモノサシが必要です」

女性

「歴史的な事件は、どうなんですか?」

「基軸を定めて、そこから歴史事象を判断することになります」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「nippon.com」提供です」

 歴史の基軸をどのように設定するか

 歴史を見る場合、大事なことは基軸をどのように設定するか、ということです。例えば、人間の場合の基軸はその人のアイデンティティです。アイデンティティというのは、自他共に認めるその人の特徴です。歌が上手い、野球が得意、生き物の世話が好き、物語を作るのが得意など、その人が夢中で取り組むことができ、周りもその能力を認めているものです。

お国柄という言葉があるように、国にもアイデンティティが当然あります。そのアイデンティティというのは、客観的な状況と主観的な状況によって定まります。客観的な状況というのは、農耕民族の国であるということと、島あり半島有り、山、谷、湖ありの複雑な地形を持った国であるということです。

農耕民族は目の前のモノの処理は上手いのですが、俯瞰力が弱いという欠点があります。地理的な特徴を踏まえて、地方分権体制が天武・持統期に導入されます。中央の朝廷と地方の豪族・貴族がネットワークを結ぶことによって日本を統治するスタイルが確立します。そして国家の中心軸に皇統を据えます

シラス(治ラス)者の天皇は、時の権力者と「二人三脚」で日本を統治します。これが日本のかたちであり、基軸となります。シラスはシンボル(象徴)とは違います。シンボルは文字通り政治には全く関与しません。シラスは関与します。権力者は国にとって重大なことを決定する場合、シラス者の天皇の意見を聞く必要があるのです。天武・持統期から敗戦まで天皇の地位はシラスです。

(「ナタリー」)

 明治維新の評価―ー歴史の基軸から判断すべき

明治維新も歴史の基軸から判断する必要があります近代化という指標で明治維新を判断すると評価を誤る可能性が出ます。それから安倍元首相以来、経済を語るのが一つの慣例のようになってしまっていますが、経済的なパフォーマンスは指標とはなりません。「経済立国を追求する」(斎藤健経済産業相/『日経』4/14日付)と言っていますが、それは目指す道ではありません。下のイラストで言うと、向かって左の山頂の目的地があるべき姿です。これが基軸となります。近代化とか経済発展は、目的を達成するための一つの通過点、つまりその時代に掲げた目標です。

考え方は人生と同じです。自分のアイデンティティが確立し、人生の方向が決まり、その目的地に向けて努力をし始めます。その結果得た収入は、「おまけ」のようなものです。中には金持ちになることを目的地とする人もいますが、仮にお金持ちになったとしても、それでは何のための人生なのか分からなくなります。

自分の人生の中でやり遂げた仕事は実績として人々の心の中に遺るのですが、カネはやがて消えてなくなるからです。カネはあくまでも目的、目標を達するための手段です。国も同じです。経済的なパフォーマンスは、あくまでも後からついてくるものです。最初から、目指すものではないということです。順番を間違えないようにする必要があります。

 明治維新が革命かどうかという空虚な議論

明治維新が革命であったか、なかったかという空虚な議論があります。こういう命題を立てる方は、革命であれば高い評価を与え、そうでなければ評価しないというスタンスを取りがちです。そうではなく、明治政府が行った政策が基軸と噛み合ったものなのかどうなのかという観点から判断すべきなのです。

ということで何をしたのかというと、「西洋に追いつけ追い越せ」という合言葉のもと、近代化を旗印に富国強兵政策を推し進めますが、目標の立て方が逆です。先の例で言うと、金持ちになることを目標にしてしまっています。

日本の国柄にそった国づくりをすれば良いのです。それが理に適っていれば近代化を成し遂げることができて、国は富み、結果として西洋に追いついて追い越すことができるのです目標の立て方が逆になってしまったので、具体的な政策を間違えることになります。ボタンの掛け違いが起こります。1つ2つと掛け違いが起こり始め、最後は収拾がつかなくなり、究極の敗戦を迎え、多くの人命と財産を無くします。そして、その大元の原因は、明治維新期、つまり最初の出だしで立てられた政策に原因があります

そのことについては、次回にまわしたいと思います

(「東洋経済オンライン」)

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