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「省略の文化」と説明責任の時代 ―― “日本的評価観”は国際社会で通用するのか / 分析を求める西洋的思考

女性

「りくりゅうペアが金メタルを取りましたが、2人の演技を見て感動しました」

「僕も久しぶりに魅入ってしまいました。フィギュアスケートは、よく分からないから見ないという人もいるみたいですけどね」

女性

「多分、そういう人でもあの二人の演技の素晴らしさは分かると思います」

「まさに芸術、と評価していた解説者もいましたからね」

女性

「大会史上最高得点だったことが、それを証明しています。だけど、点数と見た印象が一致しないことはあるのでしょうか?」

「誰もが素晴らしいと感じているのに、点数が低いということですか?審判の能力が低いか、審査項目に誤りがあるということになると思います」

女性

「だけど不思議なのは、私たちが良いと感じたものは、点数も高いのですね」

「ものすごい細かい審査項目があるし、複数の審判員によって点数を付けるので、ほぼ正確に出せるのでしょう」

女性

「日本人の感覚として芸術の域に達したものは、言葉や点数で表わすことは出来ないという感覚がありますよね」

「西洋人は徹底的にそこを追及します。すべて分析して、それを合計して数値化、つまり視覚化させることによって万人に納得させることが必要と考えます」

女性

「何でもかんでも数値化すると興ざめしないでしょうか?」

「「あうんの呼吸」、「言わなくても分かる」という言葉が日本にはありますので、徹底的に追究することを避ける傾向があります。しかし、何事においても説明責任が求められる時代になったと思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙写真は「読売新聞オンライン」提供です」

 

 点数化される芸術――分析を求める西洋的思考

2人が話題にしたフィギュアスケートの得点は、技術点+演技構成点-違反で示されます。技術点は基礎点と出来栄え点によって構成され、高さや美しい着氷といった加点要素、転倒や回転不足といった減点要素が加味されます。このように一つの演技を徹底的に細分化し、最終的に点数を合計して優劣を決める仕組みになっています。

現在、日本政府は観光立国を掲げ、日本の文化・芸術コンテンツをより積極的に世界へ展開しようとしています。しかし、この取り組みに対する反応は地域によって異なります。アジア圏では概ね好意的に受け止められる一方、西洋圏では「なぜそれが優れているのか」という説明責任が求められる傾向があります。

例えば、質感のある左右非対称の茶碗を「日本文化の最高傑作」と評価したとします。その瞬間、「どこが、どのように優れているのか」という具体的説明が求められます。フィギュアスケートの演技を項目ごとに分析し点数化するように、芸術作品についても論理的・分析的な説明が期待されるのです。

(「読売新聞」)

 権威と密室――日本的評価制度の課題

では、「古びた質感のある左右非対称の茶碗」(下の写真)の芸術性を、どのように分析的に説明すればよいのでしょうか。これは容易な課題ではありません。日本の学問や芸術の世界には、こうした分析的説明を必ずしも重視してこなかった側面があります。ある流派や権威が評価すれば、それで十分であり、それ以上の説明は不要とする風潮が存在してきました。

分かりやすい例として、芥川賞が挙げられますこの賞には明確で詳細な選考基準が公表されていません選考委員の合議によって受賞作が決まり、その過程は非公開です。そのため、選考会の雰囲気や委員間の力関係が影響する可能性も否定できません。公募制ではないため、そもそも読まれない優れた作品が存在する可能性もあります。こうした「目こぼし」をある程度やむを得ないとする姿勢は、ある意味で日本的とも言えますが、透明性や説明責任が重視される現代においては、徐々に見直されるべき課題でしょう。

一方、和辻哲郎文化賞は、自薦・他薦を問わず応募可能であり、形式上はより公平性が担保されています。しかし募集要項を見ると、「日本文化、伝統文化、風土と人間生活との関連等に関するもので、国際的普遍性、斬新な視点及び深い思索性のある評論」とあり、具体的基準は抽象的です。応募者にとって、自らの作品が条件を満たしているかどうかを客観的に判断するのは容易ではありません。

(「黒田陶苑」)

 省略の文化と言語構造――説明不足の根底

この「説明不足」という問題は、日本語の特性とも深く関係しています日本語は主語を明示しなくても成立する言語です。一方、英語は主語が必須であり、主語が決まれば動詞の形も規定されます。I であれば am、You であれば are という具合です。

日本語はしばしば「述語中心の言語」と言われ、英語は「主語中心の言語」とされます。例えば、川端康成の『雪国』の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国であった」という一文には主語がありません。しかし、主語がないからこそ、読者は視点を固定されることなく、情景そのものを鮮やかに共有できます

これを英語にすると「The train came out of the long tunnel into the snow country」となります。英語では主語が必要なため、「The train」が文頭に置かれます。その結果、汽車が文の主体となり、日本語原文のもつ情景中心の構造とは異なる印象になります。何となく意味は伝わりますが、構造的な焦点は変化しているため、日本語で書かれた情感は伝わりません

俳句や短歌の文化を持つ日本では、言葉を削ぎ落とすことが美徳とされます。余分な説明は奥行きを損なうと考えられることもあります。いわば「省略の文化」です。この感覚は、無意識のうちに私たちの言語運用や対外的発信にも影響を与えています。

西洋社会では、論理的・分析的に詳細を語ることが重視されますので、多弁でもOKですが、日本では沈黙や含意を尊ぶ傾向がありますこの文化差を十分に理解することが、国際社会において誤解なく関係を築くための重要な鍵となるでしょう。                                             【参考記事】   阪田徹 (東京国立博物館参与)「芸術と経済―西洋の富裕層に届く『説明力』を」(『産経』2026.2.18日付)

金谷武洋(言語学者) 「日本語こそが世界を平和にする鍵」(『致知』2021.1月号)

(「ブックオフオンラインコラム」)

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