「かつて、フェデラーがテニスのグランドスラム大会で優勝した後、「最初の2セットを落とした時もパニックを起こしていなかったよ」とコメントしたことがあります。実に大事な内容が含まれていると思います」
「結果を出す人は、どんな時でもパニックを起こさないということですね」
「試合も人生も同じで、常に勝ち続けることはありません。試合の中でも、様々な流れがあって相手に流れが傾いてしまった時、どうするかということです。まず、一番重要なことは、パニックにならないということです」
「あっ、その感覚分かります。高校の時、バレーボール部だったのですが、ブロックの優勝をかけた試合の時に味わいました。途中まで接戦だったのですが、相手に5、6本連続してポイントを取られて、その途端に急にチーム内に重い空気が流れました」
「その後はどうだったのですか?」
「その試合に勝っていれば、今、こうやって話をしていないと思います。その時は、何も考えられないようになり、動きも悪くなり、自信が急になくなり大変でした」
「まるで世界の終わりのような感じでパニックを起こしてしまったのですね。ベンチはどうしたのですか?」
「監督はタイムをとっていろいろアドバイスをしてくれましたが、何かそれが皆んなの頭の上を流れる感じでした。そのまま、押し切られてしまいました」
「こういった話題を選んだのは、最近の若い人が犯した凶悪犯罪の報道に接したからです。殺人放火事件と電車内での放火傷害事件がありました。2件とも彼らの中のパニックが遠因としてあると思います」
「振られた、仕事が上手くいかなかった、対人関係が上手くいかない等ですよね。アタックが決まらない、簡単なレシーブでミスをする、サーブがネットでパニックと似ていますよね」
「多分、動機を聞くと、その程度でそこまでやるのかと思うかもしれませんが、頭の中はパニックになり自暴自棄の暴走モードとなったのです。そうなると、自分を追い込んでしまって、世界の終りが来たような感覚を持つことになります」
「冷静に考えれば、そこでリセットできるのですけどね」
「勿論そうですね。ただ、それを冷静に判断することが出来なくなってしまっているということです」
「素朴な疑問ですが、かつての時代は、そこまで自暴自棄にならないで各自がコントロールしていたと思います。その原因と対策についてのコメントをお願いします。ここからが本論です ↓」
スポーツ選手は死闘の中でパニック対処法を体得している
逆説的に考えてみましょう。王者フェデラーは、どうしてパニックにならないのでしょうか。それは、今まで何回か試合中にパニックに陥った挙句に敗け、そういった経験を積んでいるので、追い詰められた時の対処法を知っているからです。
野球やテニスなどあらゆるスポーツは、世界のトップは殆ど紙一重の差の中で勝負をしています。テニスのグランドスラム大会を見れば分かりますが、トップシードの選手が1回戦で負けることもあります。何か歯車が狂った瞬間に、勝利の女神がそっぽを向く世界なのです。そういった経験の中で、対処の方法を各自が実践的に学んでいるのです。
(「まとめダネ」)
伝記を学ぶことが、パニック対処法を身につけることになる
プロ選手のように、パニックになりそうな場面を何度も経験できない人たちは、どうすれば良いのか。人生の中でパニックになって、それを乗り切った人の伝記から学ぶということです。そのための教育だと思います。疑似体験を子供たちになるべくリアルにしてもらうことによって、頭の中で「パニック経験」をしてもらうのです。そして、その中で対処法を学ぶのです。「パニック経験」をするためには、なるべく感情移入できるような伝記が望ましいのです。
伝記の中には、実際にその場に居合わせたら、パニックになりそうな場面がふんだんにあります。もっとも順風満帆では、話が面白くありませんので、ある意味当たり前なことなのかもしれません。例えば、塙保己一(はなわほきいち)ですが、彼は江戸時代後期に活躍した全盲の学者ですが、7歳の時に病気がもとで失明をします。彼も少なからずここでパニックになったでしょう。当時は点字もない時代、どうやって学問の道を切り開いたのか、人知れず努力をしたことは間違いないと思います。
15歳で江戸に出て、学問の道に進みます。多くの困難の中、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版していきました。48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所」を創設し、多くの弟子を育てました。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだのです。
ヘレン・ケラー(1880~1968)は目も見えず、耳も聞こえず、そのため話すことが困難という境遇にも関わらず全生涯を教育と福祉、そして世界平和のために捧げましたが、彼女の出発点に実は塙保己一の生き方があったと言われています。若かりし頃は、その境遇故に、何度もパニックになったことでしょう。多分、タリバン先生から塙保己一の生き方が伝えられたのでしょう。日本に来日(1937年)して、渋谷の温故学会の塙保己一の像を待ち焦がれた恋人に会った時のように触れていたと言われています。
そして、埼玉会館で開かれた講演会では、「私は特別の思いをもって、埼玉にやって参りました。それはつらく苦しい時でも、この埼玉ゆかりのハナワ・ホキイチ先生を目標に頑張ることができ、”今の私”があるからです」と話しています。
(「すごい人まとめ」)
100の訓示を垂れるより、偉人の生き方を示した方が感化力がある
該当する教科は「道徳」ですが、その内容は私からすると問題ありです。このブログで書いてきましたが、日本の道徳教科書は、まるで人間をAIロボットのように見立てているところがあります。プログラムを注入すれば、その通りに人間が動くという皮相的な人間観に立った道徳教材になっています。
例えば、中学校の道徳教科書を見ると、項目を「自分自身に関すること」「他の人との関わり」「集団や社会との関わり」「生命や自然、崇高なものとの関わり」というように4つの項目に機械的に分けた上で、それに見合った話を掲載するという編集になっています。
ただ、実際の人生はこれが複合したかたちで現前に展開します。例えば、今問題になっている「軽石問題」に対してどう考えるのかですが、仮にそれを撤去しようと思ったとします。それは環境問題をわがことと考えているので、「自分自身に関すること」であり、撤去は一人では出来ませんので、必然的に周りの人たちとの協力が必要です。そして、そのように考えるに至ったのは、自然に対する崇高な思いがあるからです。というように、物事を総合的、有機的に捉える力が道徳力なのですが、切り離して教材を作っているため、却って道徳力が身に付かないだろうと思っています。
冒頭であげた放火殺人者たちも、学校で道徳の授業を受けているはずです。何の力にもならなかったということです。インパクトのある教材を開発して、「あの人の生きたように」と子供たちが常に胸に刻んで生きることができるようなものを用意すべきでしょう。
ヘレン・ケラーが日本で流した涙。それは、ある人の生き方が、別の人の人生を変えてしまう程の力があるという証明でもあったのです。
(「ヤフオク」)
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