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「人間は社会的動物」――その言葉を噛みしめる時代 / アリストテレスも「志教育」に賛成したであろう

  • 2021年11月7日
  • 2021年11月7日
  • 教育論
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「今日も志教育でいきたいと思います。ところで、メキキの会を知っていますか」

女性

「いえ、それは何ですか?」

「志教育を推進している活動をしている団体です。出口王仁三郎という方を知っていますか?霊能者として有名な方だったのですが、そのお孫さんの出口光さんが主宰しています」

女性

「詳しいですね」

「一応、会員ですから……。志を持った人同士が繋がろうという趣旨で結成された団体です。創設されて25年位になると思います。よろしければ、是非。」

女性

「何かいろいろ関わっていらっしゃいますね」

「志教育に問題意識が結構あるものですから、……。今の学校教育に足りない視点でもあるのです。人間は志を持つことによって、自身の能力を高めることが出来るのです」

女性

「それはどうしてですか?」

「そのように作られているから、としか答えようがありません。人間は、組織を作る生き物です。アリストテレスはそれを評して、人間は社会的動物であると言ったのです」

女性

「高校倫理のテストの時に、必死で覚えた言葉です」

「覚えても、そこから考えないと余り意味がありません。要するに、人間は自分のことと国家・社会の両方を考えることによって力を発揮する動物、と読み替える必要があります」

女性

「一つだけではダメですか?」

「ダメとか、ダメじゃないという問題ではなく、2つのことを考えることによって力を発揮する動物だし、また人間が作った組織も同じなのです。そういうことが分かっていない方が多いと思います」

女性

「私の子供たちは小学生ですけど、ピアノの先生とかテニスの選手と勝手なことを言っていますが、それを志にもっていくと力を発揮するのでしょうか?」

「スポーツや芸術の場合は、持って生まれた才能がありますので何とも言えませんが、こんな選手になりたいということで考えさせることは良いことだと思います」

女性

「ここからが本論です ↓」

 「人間は社会的動物」――その言葉を噛みしめる時代

人間は個性的な動物なので、その個性を磨くということが重要な務めです。ただ、社会的動物なので、実はそれだけでは力を発揮できません。つまり、その個性を伴った能力を社会のどの方面で使うのかが自覚できなければ、本人は空回りするだけです。実は、現代教育は空回りの人材、いわゆる「半人前」の人間を量産しているとも言えるのです。

「半人前」を差別用語だと思っているのか、あるいは自然消滅なのかは分かりませんが、最近は余り使われなくなりました。この「半人前」の意味は、自分のことしか考えていない人間のことです一昔前の日本人はよく「半人前」という言葉を軽蔑の意味を含ませながら叱咤激励の気持ちを込めて使っていました。子供は自己中心的に行動することが多いので、子供に対して使うことが多かったのです。

ただ、この言葉は、肉体的成熟さを表した言葉でもなければ、経済力を表した言葉でもありません。子供たちに、このままでは一人の人間として扱ってもらえないぞという警告の意味をそこに込めたのです。そこには、自分ことだけでなく、周りのことを考えられる人間になって欲しいという願いが込められていたのです。

「半人前」の大人が増えてしまったので、子供たちだけに使えなくなり、そのためにどこで使って良いか分からなくなったために死語化していったのだと思います。教育的には、分かりやすい言葉だとは思いますが……。

(「Ameba」)

 育てたように育つ

「半人前」の大人が増えれば、半人前の子供が当然のように増えます。それを防ぐためには、学校教育を通して志教育を普及させることしかありません。

志教育というと、何かオーバーなイメージを持つ人がいるかもしれませんが、簡単に言えば、自分のことと他人のこと、その両方を考えて行動出来るような人間になりましょうという教えです。

学校教育の現場では、学級活動、生徒会活動、清掃活動などといった特別活動を通じて利他的な心情を育てるようにはしていると思います。ただ、そういった時間が設けられたからといって、すべての児童に教えが伝わる訳ではありません。中には、「どうしてこんなことをやらなければいけないのか」と思いながら活動している子供もいるからです。中には、「勉強さえ出来ればええんとちゃう」と考えている子供もいます。それは違うという教えを、学校と家庭が同じ方向を向いて行う必要があります。家庭でも、子供に何か定期的にできるお手伝いを1つでも良いので与えるべきなのです。そして、そういった活動が基本にあると、志教育がスッと彼らの中に入っていきます。

(「PR TIMES」)

  志がないのでブランドに走る

『日経』に「ブランド主義 改革の壁」という表題で、日本電産の永森重信会長のインタビュー記事が掲載されています。彼はその中で、日本人のブランド大学志向が様々な改革を妨げていると指摘します。彼が紹介している例は、ブランド大学の学生の中には、10社から内定をもらったものの、すべて業種が違った10社であるということもあるそうです。本人は何をやりたいのか分からない、会社もブランド大学の学生だからとりあえず内定を出しておこうということらしいのです。

お互い何の目的も持たず、「見合い結婚」のようにして入社をするのですが、志がある訳ではないので、何か専門性を極めている訳でもありません。何か困難なことがあれば、すくに会社を辞めてしまうことになります。これでは、何のために今まで努力をしてきたのか分からないと言っています。そもそもの問題は、学校教育の段階、つまり出発点において自分の進むべき方角、つまり志を定めなかったところにあります。自分を見つめて、自分の能力が何に向いているのか、その能力を社会の中にどのように還元していくのかということを考えずに大学卒業まで来てしまったのでしょう。

それまでは偏差値というモノサシだけを頼りにきたのですが、会社の場合は偏差値はありませんので、急に迷い、結局東証一部の会社から業種に関係なく選ぶということしかできなくなります。ただ、これではお互い不幸です。こういう状況を実社会から見てきたのでしょう。永森氏は「これからの永森学園では人間教育をやりたい。日本人としての誇りを持ち、世界に通用し、将来の日本をつくる若者を育てること」と決意を述べておられます。

21世紀は、さらに競争が激化することが予想されます。その荒波に巻き込まれたとしても、自分の中に羅針盤さえあれば、道に迷うことなく人生を歩むことが出来ます。そのための志教育なのです。


(「京都先端科学大学」)

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