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藩閥政府の統治プログラム (2) ―― 明治の藩閥政府は強気一辺倒だった / 東学党の乱から日清戦争へ

  • 2024年6月13日
  • 歴史
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「明治維新史学会というのがあることを、知っていました?」

女性

「いえ、知りませんでした。ただ、明治維新ということで時代が変わり、その新たな動きを研究したいという気持ちは分かります。ところで、何年くらい活動しているのですか?」

「1980年の創立なので、今年が44年目だと思います」

女性

「ただ、その学会では、その後の出来事、例えば日清・日露戦争とか大正デモクラシーのことを扱わないのでしょ」

「そうでしょうね。期間限定の史実を研究するということだと思います」

女性

「そのようなミクロ研究は医学系や生物学など理系学問には有効だと思いますが、歴史学でもやはり有効でしょうか?」

「マクロの流れを把握した上でのミクロ研究なら有効だと思います。そうでないと、研究そのものが無駄になる可能性が出てきます」

女性

「その維新史学会は、マクロの流れをどのように捉えているのですか?」

「「日本社会の近世封建制から近代資本制への総体的な転換」(『明治維新史研究の今を問う』明治維新史学会、2011)期と捉えるのです」

女性

「経済的に大きく転換した時期という捉え方なんですね」

「マルクス主義の影響だと思われます」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「リベラルアーツガイド」提供です」

目次

目次

 明治の藩閥政府は強気一辺倒だった

 

 

1871年、日清修好条規が結ばれます。日本が最初に結んだ対等条約です。この第一条を読むと、清国が日本と条約を結んだ理由が分かります――「‥‥両国に属したる邦土も、各(おのおの)礼を以て相持ち、いささかも侵越する事なく、永久安全を得せしむへし」。「両国に属したる邦土」というのは、朝鮮のことです。朝鮮の帰属先を留保した上で、日本と清が相互不可侵条約を結んだことが分かります。清が譲ったかたちです。当時の日本を攻撃的な国として認識していたからだと思われます。

 

その後すぐに、沖縄・宮古島の島民69人が乗った船が難破して台湾に漂着をして、そこで54人がパイワン族によって殺されるという事件が発生します。日本政府は出兵をします。日本は賠償金を清に請求しますが、台湾は化外の地であり、清に責任がないこと、さらに宮古島は琉球王国の住民であって日本人ではない。よって賠償金を払う義務がないと言います。

 

今の日本政府では考えられないような毅然たる態度を中国に示します。結局、この事件の仲介にイギリスが入り、台湾が清に、沖縄が日本に帰属することを認め合いながら、清が賠償金を払うことで決着します。この一連の「成功体験」が藩閥政府を強気の方向に向かわせます。清は、第一の仮想敵国をロシアから日本に変更します

 

(「The News Lens Japan」)

  「日朝修好条規」を機に干渉を繰り返す

 

江華島事件が起きます(1875)。日本の軍艦が韓国側を挑発し、韓国側から砲撃を受けるという事件です。これをきっかけとして韓国側に開国を迫り、翌1876年に「日朝修好条規」を結び、朝鮮は鎖国政策を変更することになります「日朝修好条規」の第一条は「朝鮮国は自主の邦にして平等の権を保有せり」となっています。つまり、清の属国ではないことをここで明らかにしています。そして、日本は朝鮮に対して様々な干渉を繰り返すことになります

 

1882年に壬午(じんご)の変、1884年には甲申(こうしん)の変が起きます。この2つの事変に清も日本も関わっています。清は袁世凱の活躍によって、その存在感を示しますが、そういう意味では日本はなす術(すべ)もなく、事変終了後、撤退します。

 

このように近隣の国に対する攻撃的な態度の一因は、国内統治にあります。国内が荒れれば、為政者は国民の関心を外に向けさせるために、どうしても国外に対して攻撃的になります。不平武士の反乱や徴兵令や地租改正に反対する農民一揆などが頻発していたのです。それと同時に政権内での権力集中が進行していたのです。

 

 

                       (「Try IT」)

 東学党の乱から日清戦争へ

 

東学というのは、西学と呼ばれたキリスト教に対する東洋思想のことです。一種の平等思想を説き、農民を中心に広がり、一時は南朝鮮を制圧するほどに広がります。この反乱の鎮圧を名目に清と日本が動き、そして日清戦争に至ったというのが大方の流れです。

 

日本軍の兵員24万人、対する清の兵員98万人、艦艇の総合力でも清の方が上でしたが、指揮系統に乱れがあり、兵員の士気も上がらず、承知の如くの結果となりました。

 

1895年に下関条約が結ばれて講和が成立します。講和の内容は、①清が朝鮮の独立を認める。②賠償金を払う。③台湾、遼東(りょうとう)半島、澎湖(ほうこ)諸島を日本に割譲する、といった内容です。①と②はともかくとして、問題は③です。もともと朝鮮の独立を果たすことが大義名分として掲げられて始めた戦争です。③を要求する理由はありません。このことによって「欧米諸国と同じく、近代国家にまつわる醜悪な暗部をさらけだした」(星野芳郎『日本軍国主義の源流を問う』日本評論社)のである。

 

講和を機に、本来はアジアの仲間同士、共に手を携え、欧米列強に対抗することを考えるべきだったのである。やがて三国干渉を呼び込み、日本はアジアの孤児の道を歩むことになるのです

 

(「yayoigaoka-seminar.com」)

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