「道徳の教科化が小学校は2018年度から、中学校は2019年度から全面実施されていますが、教科書の内容を含めて、余り中身の議論がなされていません」
「前に、1回話題にしたことがありましたよね」
「大事なテーマですし、文科省の道徳教育の考え方でおかしい点もありますので、再度問題提起をしたいと思います」
「そもそも教科化したのは、何らかの理由があるわけですよね」
「もともと小中学校の道徳の時間は1958年にスタートしています。教材は検定を受けない副読本や教員が独自に作製した資料などを使ったりしたのです」
「私は、道徳の授業を受けたという記憶が余りないですね」
「私は5.6年生の時の道徳はよく覚えています」
「えっ、凄いじゃあないですか」
「毎回、説教と自分の生い立ちや自慢話でしたね」
「よく話のネタが尽きませんね」
「だから、同じような話を何回もするのです」
「うわっ、最低!」
「道徳の時間をそういうふうに説教、ホームルーム、自習といったことに使われてきたので、真面目にやろうということで教科化に踏み切ったのだと思います」
「いじめ、不登校が増えたことも原因と聞きましたけど」
「そういったことも、理由の中の1つでしょうね」
「ここからが本論です ↓」
道徳とは、人間の生き方を半ば強制的に指し示すこと
「人間の行為にたいして規制を施し規範を指し示すもの、それが道徳である」(『国民の道徳』扶桑社.2000年/226ページ)と西部邁氏は言います。
この地上に人類が登場し、集団を作り始めます。勝手なことをする人もいたでしょう。そもそも、「勝手」という概念すらなかったでしょう。とにかく、何のルールもないわけですから。一人ひとりが自由に振舞っていたことでしょう。
ところが、そのうちお互い快適に集団の中で過ごすために、守るべきことをみんなで決めようということになっていきます。これが道徳の始まりです。やがて、国家が成立をすると、強制的にでも守らせる必要があるものについては法律として定め、罰則規定を設けるようになっていったのでしょう。法律の内容の中には、道徳的な内容が含まれることがあります。例えば、傷害罪、殺人罪がそうですが、もともとは人を傷つけたり、殺したりするものではないという道徳的な教えから始まっていると思われます。
温故知新なので、中国の古典を紐解いてみたいと思います。諸子百家の人たちが人間はどうあるべきなのか、ということに対して短い言葉で考えを遺しています。
仁、礼、義、孝、信、兼愛、悌、忠といったところでしょうか。また、日本の江戸時代には朱子学者や陽明学者たちが、やはり言葉を遺しています。仁、敬、孝、誠、正直、倹約、人道などです。
先人たちの言葉をまず使うという発想が欲しいです。勝手に自分たちの思い付きで道徳の内容を決めないで、歴史の洗礼を受けたものを使うという考えが欲しいです。言葉として遺っているということは、それなりの意義があるはずだからです。
そして、道徳の徳目は、新参者に対して、こうあるべきだと教えるところからスタートしたはずです。それを内容とする話、できれば偉人の話が良いと思います。中学の道徳の教科書は作り話と生徒の作文が多すぎます。白々しさが出てしまうと、自分の生き方を変えてみようとか、手本にしてみようという気持ちが起きません。偉人であれば、実際にいた人ですので、実話の説得力みたいなものがあります。ちなみに、戦前の修身は、ほとんどが古今東西の偉人の話です。その言葉の歴史的背景を説明してあげれば、歴史の勉強にもなります。
「自主」「自律」「自由」から始まっている道徳の教科書
文科省の小学校道徳の学習指導要領と中学校道徳のそれを見てみると、「まえがき」「改訂の経緯」「改訂の方針」は全く同じ文章です。小学生と中学生では発達段階が違いますし、それぞれの到達目標も違うはずですが、何故か使いまわしをしています。
一番気になった文言は、「改訂の経緯」の中の文章ですーー「発達の段階に応じ,答えが一つではない道徳的な課 題を一人一人の生徒が自分自身の問題と捉え,向き合う『考える道徳』,『議論する道徳』へと転換を図るものである」。全く同じ文章が、小学校と中学校の「改訂の経緯」の中に入っています。
よく考えて欲しいのですが、中学3年生くらいであれば、多少は議論ということを考えても良いかなと思いますが、まずは社会の中にある道徳的なきまりを理解させ、守らせるところから始めるべきではないでしょうか。
小学校1年生の項目を見ると、「自分のよさを生かし伸ばす」「自分の特徴に気付くこと」とあります。まず、最初に自分が出てしまっています。道徳と心理学を勘違いしているのではないかと思います。そもそも、自分探しというのは、青年期の課題です。小学1年生には、これは無理な注文です。大人ですら、「自分のよさ」や「自分の特徴」が分からない人がいるのに、無理な注文でしょう。
そして、この延長線に「正しいと判断したことはしっかりやり抜く」(3年生)がきます。まだ、何が正しいか分からないような年齢の子供に対して、「やり抜くこと」をよしとしてしまうというのは、道を誤らせる可能性があります。
多くの障がい者の命を奪った植松被告のような人間を育てる危険性もあります。彼は、「障がい者は社会のためにならない。その彼らを殺すことは正しいこと」と思い込んで、強い決意のもと十何人もの人を殺したのです。
道徳の第一歩は、個人と家族との関係を教えること
社会の中で一人で生きていると、どうしても個人主義・利己主義になりがちです。競争社会の中で生きていると、つい本能的に自分を守ろうとするからです。つまり、個人主義・利己主義というのは、別に誰かに教えてもらわなくてもよいことなのです。
大事なのは、利他主義の気持ちなのです。自分の気持ちや欲望を抑えて、いかに他人や社会のために行動しようとするか。そして、それが一番素直にでる場面が家族との関係なのです。これは、年齢が幼ければ幼いほど素直に出る心情です。小さい子供は、普通に「パパ、ママ大好き」と平気で言えます。中学生で言う子がいれば、少し心配しなければいけないと思います。
小学校の低学年の子供に教えることは、「孝」であり「悌」でしょう。親や兄弟に対しての思いやりの心をもつことを教えることだと思います。そして、その気持ちをどうやって相手に伝えるか、どうやって伝えたら喜んでくれたのか、そういう話し合いなら良いと思います。
人間が生まれて最初に出会う集団が家族です。家族の一員として居心地の良いポジションをとることができるように指導するのが最初ですし、実際に青年期に家族のことで悩む人も多いのです。家族との関係をクリアーできれば、つぎの段階、つまり「自分探し」に進むことができるのです。家族を離れての「自分」はあり得ません。あり得ないことを道徳の中で教えようとしています。家族のその子に対する希望や願いもあります。自分の人生だということで勝手に決めることはできません。個人主義的な道徳を説く場合の盲点です。
文科省の学習指導要領の「道徳」の章立てを見ると、小学校から中学校まで、すべて同じです。同じというのも、乱暴だと思いますが、4つの章から成っています――「自分自身に関すること」「人との関わりに関すること」「集団や社会との関わりに関すること」「自然との関わり」。
すべて「自分」から入っていること、「家族」との関わりがないこと。これが章立てにおける大きな問題点です。
読んでいただき、ありがとうございました。
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