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 道徳は「共感」を得るための題材を見つけられたし / 「自然との関わり」は小中学生の「道徳」には適さない

  • 2020年8月28日
  • 2020年8月29日
  • 教育論
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「今日も道徳の問題で議論を深めたいと思います」

女性

「折角なので、知り合いの小学校の先生に道徳の授業について聞いてみました」

「なんておっしゃっていましたか」

女性

「子供たちの生活経験の差があるので、そこを最初の段階でどう合わせるかが大事だと言っていました」

「最初の段階というのは、授業に入った時ということですか?」

女性

「その方が具体例として言っていたのは、バスに乗る時運転手さんが挨拶をしてくれるのですが、それに対して何も言えないという場面を題材にした道徳の単元の時、そういう経験がある子とない子のイメージがどうしても違うと言っています」

「イメージが違えば、当然どうするべきかといったことも違ってくるので、共感を持つ子と持たない子が出てきますよね」

女性

「そうですね。そのあたりは家庭教育の問題があるし、難しいところだと言っていました」

「道徳はまず共感をつくることから始めないと上手くいきません。共感を得るのに一番最適なのは偉人の話なのです」

女性

「それは、よくおっしゃっていますよね。ただ、どうして偉人の話が最適なのですか?」

「社会的評価が定まっているからです。だから、教える方も、この生き方はみんなの見本なんだよと、ここからスタートできるのです」

女性

「要するに、誰も文句が言えないところから始めることができるということですね」

「そこが重要なのです。それらしき人を選んでいて、その努力は買いますが、ある程度歴史的にも評価が定まっている人を選ぶ必要があります」

女性

「具体的にお話をしてもらえませんか」

「例えば、中1の道徳(「東京書籍」)の一番最初は「さらなる高みを目指して」ということでリオオリンピック400m男子リレー銀メタルをとったことを題材にしています。大変なことだと思いますが、どうして足が速いことが素晴らしいのかと思う子もいるのです」

女性

「その時に、反論し切れないということですね」

「偉人の場合は、これが手本の生き方と言い切れるのです。この差は小さいかもしれないですが、大きいのです」

女性

「ここからが本論です ↓」

 他者との接し方を学ぶのが道徳―-自然は対象外

文科省の学習指導要領の「道徳」の章立ては小学校から中学校まで同じで、4つの章から成っていることは昨日のブログで言った通りです。「自分自身に関すること」、「人との関わりに関すること」、「集団や社会との関わりに関すること」、「自然との関わり」、以上4つの項目で構成されています。

子供たちに身近な「家族」という項目がなかったり、「人との関わり」と「集団や社会との関わり」を分ける意味がよく分からなかったりということもあり、この4つの章の立て方も変なのですが、特に問題なのは、一番最後の「自然との関わり」という項目です。

「自然との関わり」というテーマを「道徳」という教科に入れることに対する疑問です

どういうことか。人類はある意味、自然を破壊する中で文明を築いてきました。日本人は自然と共生ということを確かに考えてはきましたが、「共生」は詭弁であり、自己満足です。破壊ということに変わりはありません。要するに、程度問題なのです。つまり、人間が生きていくためには、動物や植物の命を奪うしかないからです。動植物の生命以外で肉体にとって必要なものは、水と空気くらいです。ただ、それだけでは、命を長らえることはできません。

そう考えると、人類は現在においても大いなる自然破壊者です。そもそも、我々が口にしている食料、それが生鮮食品であろうと、加工食品であろうと、その元になっているものは、動植物の生命です。つまり、自然を大切にというスローガンを突き詰めてしまうと、人類の存在否定につながり兼ねません。世界の人口は現在78億人ということですが、我々が生きるために奪う動植物の生命の量を時には考える必要があるかもしれません。

従って、自然保護のダイヤルを極端に回すと文明社会を否定することになります。自然保護団体がダム建設反対を叫び、原発反対運動、埋め立て反対運動を行うのは、そういうことだと思います。要は、ダイヤルをどこで止めて、自然との折り合いをどのような形でつけるのかという問題なのです。「自然との関わり」というのは、そういった社会問題とも関わってくるので、単純に「道徳」の中で自然を大切にと言って終わる問題ではないのです。どこで教えるのかということですが、高校までであれば「倫理」あるいは「現代社会」といった科目の中で「環境と開発」をテーマに考えさせるべき問題だと思います。学問的には「文明論」で深めるような問題ではないでしょうか。そう考えると、小中学生の「道徳」で扱うのは無理があると思います。

 

 実際に教科書(東京書籍)を見てみる

中1の「新しい道徳」の教科書の中に、「自然の力と向き合って」という単元で「火の鳥」という文章が掲載され、その中でハワイ島のキラウエア火山という世界最大の活火山のことを紹介しつつ、キラウエア火山と向き合って写真を撮った三好和義氏が書いた文章が掲載されています。

自然を敬う古代ハワイアンがこの光景に神の姿を見、おそれおののいたのは当然だ。ぼくは、ここが地球上で最も神聖な場所だと確信した」とあります。

キラウエア火山の迫力あるカラー写真が見開きで掲載されたものも含めて合計4枚あり、場所についての丁寧な地図もあり、それはそれとして良いのですが、これを扱う授業を考えた場合、どこに「接点」を持ってくれば良いのか悩むと思いました。

道徳というのは、簡単に言えば生き方です。この場面でどうするかを考えるのが道徳なのですが、その大元においては「共感」から始まります。いじめられた、あなたならどうするとか、母に日ごろの感謝を込めて何か誕生日のプレゼント、といったように場面設定をして共感をつくってからスタートするのですが、自然に対峙する人間の在り方は、それこそ百人百様なので、写真4枚を見せられても困るというのが現場の教員の感想だと思います。

どういうことか。この方は、ハワイ島のキラウエア火山を真近に見て感動したのですが、子供の中には足元の蟻が巣を作っているのを見て、「人間の力をはるかにこえた自然の力」(『新しい道徳 1』)との出会いを感じる子供もいるのです。

そして、中には蝉(セミ)取りをしたことが、「絶対に忘れない感動的な一日になった」(『新しい道徳 1』)という子供もいるのです。つまり、自然に対する感動は、その子によって全く違いますので、違うものを無理やり「共感」にもってくることはできないだろうということです。

つまり、家族や友達と関わるのとは違って、自然との関わり方は、実に千差万別なのです。「生物」の授業であれば、共感から始めないので千差万別であっても構わないのですが、道徳はそういう訳にはいきません。その教室の生徒たちの共感から始めないと授業にならないからです。たぶん教科書の編者もその共感を得るために4枚の迫力ある写真を掲載したのでしょうが、子供がどのような「自然」に興味をもつかは、それこそ様々なので一律には決められませんし、道徳教材に自然の項目を入れること自体が誤りだと思っています。

 

 全体的に文章が長すぎます

中1から中3の道徳の教科書(東京書籍)が手元にありますが。総じて、文章が長いです。これでは、読解をしている間に授業時間が終わってしまいます。冒頭の会話で話題になった「さらなる高みを目指して」は、全部で4ページ使っています。原稿用紙に直すと、約2400字、6枚分あります。こうなってくると、読解力の問題も絡んできます。

そのため、教員によっては、最初にゆっくり音読してあげて、何が書いてあるかを確認してから始めるという人もいます。ただ、そうなってくると、道徳なのか、国語の読解なのか分からなくなります。道徳の時間で、人間としてこうあるべきだということが何か一つ示されて、それを理解する、そのための教科書づくりを心掛けて欲しいと思います

長山靖生編『修身教科書に学ぶ 偉い人の話』(中央公論新社.2017年)という本には、かつての時代の修身の教科書に掲載された偉人の話が載っています。


日本には占領軍はいません。別に戦前の修身の教科書を参照しても大丈夫です。勝手に観念的な考えで道徳の教科書を作らないで、たまには先人の知恵を借りたらいかがですかと言いたいと思います。

 

 修身の教科書に載っていた話の紹介

正直についての偉人の話としては、ワシントンの桜の木があります。この話はかなり有名な話です。ワシントンはアメリカ初代大統領になった人です。正直者は大統領になれると思ってくれるだけでも、授業をした価値があるというものです。なお、江戸時代に石田梅岩が町人道徳として最も大事なこととして正直を説いています。

立志の話として、野口英世の話がありました立志という言葉自体が余り聞かれなくなっていますが、自分の人生の進む方向を決めることです。様々な生き方を学び、その中で自分はどう生きるのか、ある意味で道徳の授業の成果が試されるところです。一人ひとりの人生の目標を立てさせて終わりたいところですが、教科書ではそのような内容はありません。ちなみに、中3の最後は「たとえぼくにあすはなくても」でした。だめだ、こりゃあ、という感じです。

野口英世の話は、3歳の時に大やけどをして片手が不自由となりました。手は不自由でも一心に努力して立派な人になると志を立てます。家が貧しかったので、朝早く起きて川で魚をとってそれで得たお金で家計を支えながら勉強をしました。成績優秀で真面目だったので、ある人の紹介で手の手術を受け、手が元のように使えるようになりました。その時に医術が人の役に立つ学問だと知り、その道に進むことを決意します。その後、東京に出てきて医者の資格をとり、さらにアメリカに渡り、医学の成果も上げ世界的に有名な学者になりました。人々の役に立ちたいと思い、アフリカに渡り熱病の研究に励んだのですが、自身がその熱病にかかって亡くなりました。人々はその死を惜しんだということです。

野口英世の話は、尋常小学校の4年の修身の教科書に載っていました。それを半分くらいの文章にまとめましたが、こういう話を聞けば、自分も頑張ってみようかなと思うのではないでしょうか

オリンピック選手の話は、近いようで、実は遠い話なのです

読んでいただき、ありがとうございました。

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