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小中学校の授業時間配分の決定、「大学共通テスト」記述式断念 ―― 切れ味に欠ける決定そして改革

女性

「小中学校の授業配分について、学校の判断で増やすことが出来るようになると聞きました」

「来年4月から実施できるみたいですが、何でもかんでも自由に時間割を編成できる訳ではなく、一応「ルール」を設けています。何かの教科の授業時数を削って、その分を別の教科に割り当てるということみたいです」

女性

「1割ルールですね」

「その「ルール」の説明を新聞報道で知って読んだのですが、今一歩よく分からないのです」

女性

「全体の枠数は変えてはいけないんですよね。例えば、土曜日に2時間だけ授業をするとか、6時間の日を1日増やすとか……」

「そういうのは、文科省は許さないでしょう。個人的には、良いと思いますけどね」

女性

「授業時数が週1時間と少ないものは削る対象にできないですよね。そうすると、ターゲットになるのはある程度決まってきますよね」

「というか、時間割そのものは標準時間数で組んで、年間に何回か、例えば社会の時間に算数をするという感じだと思います。例えば、週2時間の教科だと年間70時間、その1割は7時間ですよね。その時間を他の教科で使えるということだと思います」

女性

「そうなんですか! 私は学校によって、時間割が変わることもあるのかなと思ってしまいましたけど、それはないということですね」

「それをすると、あの学校がいいとか、どうしてここの学校の時間割は……という話が出てくるので、そうならないようにという思いがあると思います」

女性

「ただ、学校はコミュニティ・スクール認定校なんですよ。もつと大胆に時間割が組めると良いと思いますけど」

「私もそう思います。発想がプアーだと思います」

女性

「それで思い出したのですが、共通テストに小論文を導入するのが結局なくなったのですね」

「再度検討したけれど、やっぱり無理ということみたいですね」

女性

「私も無理じゃあないかなと思っていました。ただ、もし実施ならば今のうちから作文を書かせる練習をと思っていたのですけどね」

「出ましたね、教育ママゴンが。ここからが本論です ↓」

 コミュニティー・スクールの理念を生かして、大胆な施策を打ち出すべき

今、文科省が推し進めている政策が、コミュニティー・スクールです。コミュニティ・スクールというのは、保護者や地域の住民の教育意思が学校運営に反映された学校のことですが、地教行法を改正(第47条の五)して、学校運営協議会を設置することを法の定めとしたのです。

この学校運営協議会ですが、(ⅰ)学校運営に関して、教育委員会や校長に意見を述べること、(ⅱ)校長の作成した方針等を承認すること、(ⅲ)当該校の教職員の任用に関して意見を述べることなどの権限が与えらます。 このような学校運営協議会は各学校に設置され、その指定は学校を管理する教育委員会が行うことになっています。

同法一部改正により、2017年4月から、教育委員会にコミュニティ・スクール導入が努力義務化され、2018年4月の時点で、コミュニティ・スクール指定校は全国5,432校までに増えました。ただ、問題なのは中身です。形だけコミュニティ・スクールにしても、内実が伴わなければ意味がありません。市内の全ての学校はコミュニティ・スクールです、と自慢をしても、どの学校も同じカリキュラムで代わり映えしない、というのでは何となく情けない話です。地域の特性を生かしたカリキュラムの策定、地域の人たちが学校教育に関わりやすくするための方策を各学校で考え、それを受け止めることができるような地域の創造、そこまでを見越して柔軟な学校改革プランを策定して欲しいものです。

(「コミュニティ・スクール/足立区」)

 共通テストを大学入試の中でどのように位置付けるのか

「共通テスト改革 断念へ」(『日経』2021.6.30日付)という見出しで、記述式問題、英語民間試験の2025年以降の導入についても断念したということを報じていました。これは有識者会議の結論ですが、これを受けて文科省は近いうちに断念を正式に決めるそうです。

しかし、こんなことはわざわざ有識者会議を開くまでもなく、普通に現場を知っている人間であれば誰もが無理と判断できたと思うような事柄です。「地に足が着く」という言葉があるように、現場に入って考えることの重要性を指摘したいと思います。これは、教育に限らず、すべてのことに共通していることではないかと思います。

単純に頭の中で大学受験の理想を追い求めた結果、これからの時代は自己発信力と国際舞台で通用する英語力だと勝手に脳にインプットして、現場を知らない人たちが話し合いをした結果、その理想的な試験が採択されて、現実の日程に上ってしまったということでしょう。

しかし、冷静になって考えてみたら、何十万人という受験生が書いた文章を多くの人間で手分けして公平に採点する。100歩譲って、ある一定程度のレベルのものが期待できるならば可能かもしれません。実際に、司法試験は論述試験を二次試験で課しています。ただ、1次合格者の関門をくぐらないと論述試験を受けることはできません。司法試験の一次合格者の文章なので対応できるのです。

今や、大学全入時代です。格差がかなり激しいものがあります。上は東大を余裕で合格するというレベルから、下は中学卒業の学力さえ怪しいというレベルまでいて、それらの文章を同じ土俵に載せて採点をしようとしていたのです。大学進学率が10-20%位であれば共通テストもいいかもしれませんが、進学率が60%近くになり、定員割れの大学も続出している現状では、どう考えても無理でしょう。野球で例えると、キャッチャーに向かって投げなければいけないのに、1塁や3塁、後ろに投げる者もいるということが実際に起きるということです。止めて正解です。

(「週刊ベースボールONLINE」)

 共通テストは、資格試験として使うようにする

大学入試は本来的に、その大学に入学してくる生徒のレベルやニーズに合わせて、それぞれの大学で責任をもって作成されるべきものです。

もし、共通テストを使うとするならば、資格試験として使えば良いと思います。問題のレベルを落として、教科書を勉強してさえすればある程度の点数が取れるような標準的な問題にして、中学校3年生以上ならば誰でも受けられるようなものにします。誰でもというのは、国籍に関係なくという意味です。

合格者には高校卒業程度の学力ありという証明書を発行します。高卒の証明書がなくても、共通テストの証明書があれば、大学受験が可となれば、高校に行かずに大学に入ることもできます。そういう英才も何人かはいるでしょう。碁や将棋の世界でいるのですから、将来のノーベル候補者を選ぶ意味でも、飛び級的な制度を作っておいた方が良いのです。

また、いろいろな事情で高校を卒業できなかった、あるいは外国の人もいるでしょう。そういう人達を救済するルートにもなります。そういう形で使われるならば、共通テストも意義があると思いますが、現状では大学が入試問題を作りたくないので、その代替として使われているという感じがします。

どのような生徒をどのような試験でどのように選抜するのか。大きな問題であり課題です

(「infoseek」)

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