「「8月革命説」という説を知っていますか?」
「それは何ですか?」
「1945年の8月に革命が起きたことにして、その上で法論理を構築しようとしたものです」
「初めて聞きました。もっとも私は、文学部の人間ですから」
「一般教養で法学概論のようなものをとれば、聞くことがあると思います」
「ところで、その説は現在でも生きているのですか?」
「見事に生きています。現在の憲法学会の通説です」
「それを話題にしようとした意図は何ですか?」
「そのことを通して、学会の体質が分かると思ったからです」
「分かりましたが、その学説について、簡単に説明をしていただけますか?」
「「8月革命説」というのは、憲法学者の宮沢俊儀氏が唱えた説です。1945年8月にポツダム宣言を受諾したという史実はありつつも革命は起きていません。起きていないけれど、説明の便宜上起こったこととして、そこから法論理を考えようというものです」
「どうして、起こったことにしてしまうのですか?」
「明治憲法と日本国憲法の間に連続性がない。ないのに、どうして全く新しい憲法を制定できるのかという命題を立てて、革命があったとすればそれは可能というところから作った説です」
「なんとなく分かりました。詳しくは本論でお願いします ↓」
実態を無視した「8月革命説」が未だに通説の怪
どうして史実を無視した法論理が、いつまでも憲法学会の通説的な立場にい続けられるのでしょうか。簡単に言えば、東大憲法学と日本憲法学会の権威が守ってきたということです。
国際弁護士として活動しているケント・ギルバート氏はその点について「もし、司法試験の論文に『八月革命説はただの詭弁であり、したがって現行の日本国憲法には正当性がない』と書けば、司法試験は不合格です。そして司法試験を諦めて、大学に研究者として残る選択をしたとしても、出世は望めないでしょう。日本の憲法学者たちにとって重要なのは『戦後の体制と権威の維持』であって『学問的真実の追求』ではないからです」(ケント・ギルバート『本当は世界一の国日本に告ぐ 大直言』SB新書.2019年/152ページ)と明確に指摘しています。
つまり、自由な学問的な討論よりも、学会は一種の徒弟制度のような性質を有しながら、先輩の学説を忠実に後世に語り継ぐのが第一の目的みたいな組織になっていったからです。
憲法学者の百地章氏は「八月革命説なるものは、新憲法を正当化するために宮沢教授によってあとから作られた理論でしかなかった。したがってどう見てもこじつけの観がある。ところがこの八月革命説は、十分な吟味もなされないまま、多くの憲法学者によって受け入れられることになった」(百地章『憲法の常識 常識の憲法』文春新書.2005年/66ページ)と言っています。本来は「十分な吟味」をしなくてはいけないのに、忖度が働いてしまっているということです。
イギリスの哲学者のベーコンはイドラ(先入観、偏見)によって真実が曇らされることがあることを指摘しています。権威や権力によって真実が歪められることを劇場のイドラと言っています。言いたいことを言うと自分にマイナスになって跳ね返ってくる、思っていても自分が間違っているのではないかと思いこむ、そんな心理作用が学会全体に働いているのでしょう。そして、同じような価値観を共有する学会になっていきます。
「8月革命説」を検証する
「8月革命説」を憲法の多くの基本書が扱っています。宮沢俊儀氏の弟子であり、東大憲法学の流れを汲む芦部信喜氏が書かれた『憲法』を紐解いてみます。
「8月革命説の内容――国民主権を基本原理とする日本国憲法が明治憲法73条の改正手続きで成立したという理論上の矛盾を説明する最も適切な学説として、大要次のような趣旨の宮沢俊儀氏の8月革命説を挙げることができる。」(芦部信喜『憲法』30ページ)とし、「(1)明治憲法73条の改正規定によって、明治憲法の基本原理である天皇主権主義と真向から対立する国民主権主義を定めることは、たしかに法的には不可能である」(芦部信喜 同)とありますが、まずこの認識が誤っています。
確かめて頂ければ分かりますが、明治憲法は主権という言葉をどこにも使っていません。使っていない言葉で憲法の基本原理を説明するのは、間違っています。そして、そもそも主権という概念は、国家と国民を峻別し対立した存在として捉えた上で、政治上最終的な決定権はどちらにあるかという意味のタームなので、日本には馴染まない言葉です。
「天皇之ヲ統治ス」とは、「シラス」者を天皇と定めたことを宣言した条文
昨日のブログで論じたように、日本は家族主義的国家観の立場をとっていますし、それを踏まえて明治憲法の文言を忠実に解釈する必要があるのです。明治憲法の起草の中心メンバーであった伊藤博文と金子堅太郎が書いた論文が遺っていますし、現在は復刻版として売られています。憲法学会は何故か、そういった憲法起草者たちが遺した資料を取り上げようとしませんが、それを実際に見てみることにします。
金子堅太郎は「外国の憲法と日本の憲法とを併せて同一の理論を以て解釈することは抑々(そもそも)誤って居ると私は確信する」(「帝国憲法の精神」)と明治憲法の解釈について、くれぐれも西欧の人権理論を使って解釈するなと言っています。
さらに金子はヨーロッパの国々の憲法の論評をしています。フランス憲法は問題外という判定。ドイツ憲法については、「独逸(ドイツ)の憲法は我が日本国憲法を起草するに当たり或る条項に就いては採用すべきものが多々あったけれども其の皇帝を以て機関の如く論定する精神に至っては我が日本国憲法に採用することはできなかった」と明確に述べています。たまに、明治憲法はドイツ憲法を模倣したと書いている本がありますが、金子はそれを明確に否定しています。
明治憲法では、主権という言葉を使わずに、「統治」という言葉を使っています。伊藤博文は明治憲法の第一条の「天皇之ヲ統治ス」について「所謂(いわゆる)『シラス』とは即ち統治の義に他ならず」と言っています。
「シラス」というのは、家族主義的国家観に立った言葉であり、権威と権力を分離した上で、一家をまとめるのは「シラス」者としての天皇の役割を謳っています。そして、実際に権力を使って一家を導く(これを「ウシハク」と言う)のは家臣たちの役目なのです。
昨日のNHKテレビ「麒麟が来る」の中で、一番偉いのはお天道様で2番目が帝(みかど/天皇)、3番目が将軍と織田信長が言うセリフがあります。その後、信長は帝に拝謁を許され、戦の勅許をもらいます。日本独特の国家観に基づく統治のシステムは、武士の時代にも有効に働いていたのです。そのシステムを明治の時代になって散々研究した挙句、「天皇之ヲ統治ス」という言葉に込めたのです。これは、西洋近代法が言う主権の意味ではありません。
そして、実は現在の憲法もこの明治の憲法を考え方や基本的なシステムを受け継いでいます。つまり、明治憲法と日本国憲法を対立的に捉えるのではなく、連続的に捉えることが重要です。そうすれば、革命説を使わなくても、日本国憲法の成立について説明することができます。
「連続」で捉えなければいけないというその根拠の第一は、明治憲法の改正手続き条項を使って、現在の日本国憲法が生まれているからです。第二は、明治憲法も日本国憲法も、第一章は「天皇」であること。さらに「象徴」というのは、古来からの天皇の在り方と何ら矛盾していないということ。第三に、日本国憲法の第6条に天皇が内閣総理大臣を任命することになっています。これは「シラス」者である天皇が、実際の「ウシハク」をする権力者を任命できるという規定であり、ここに古来よりの日本での「権力と権威の分離」の考え方が踏襲されていると解釈できるからです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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