「先般の参議院選挙について、今年中に最高裁の判決が出る見通しだというニュースが流れましたね」
「いわゆる、1票の格差裁判ですね。どの位の格差があったのですか?」
「有権者1人あたり、最大で3.03倍だそうです」
「選挙のたびに、そういった1票の格差裁判が起きていると思いますけど……」
「全国の弁護士グループが全国8か所位で一斉に訴えを起こしているのです」
「何となく、恒例になっていますよね。狙いは、何ですか?」
「何でしょうね。選挙区がある限り、一人一票ということは絶対にあり得ないのですよ」
「要するに、どの程度なら許容されるかということですよね」
「いえ、そういう数字の議論に入ってしまったら迷路にはまるだけです。1対8とか、1対10というように極端に数字の不均衡がない限り合憲だという考え方をしないと、何回でもこういう訴訟が起こされると思います」
「そういう意見は初めて聞いた気がしますけど……。憲法的には、どうなんですか?」
「憲法の41条に国会は国権の最高機関という条文があります。国会で区割りを決めたものを裁判所が判断するのは僭越だということです」
「最高裁でもダメですか?」
「最高裁であろうと、高裁であろうと、主権者国民が選んだ議員が集まって決めたことの方が優先すると思います。そのことを謳ったのが41条です」
「何となく、最高裁の判断が上という感覚をもっていますけど……」
「裁判官は司法試験に合格した人たちが、司法修習生を経てなることができます。特に、国民から負託を受けている訳ではありません。法の専門家としての意見や判断は尊重されなければいけないと思いますが、それが国会の判断よりも上になるのはおかしいと思います」
「ここからが本論です ↓ 表紙イラストは「note」提供です」
地方自治という視点が欠落している
1票の格差裁判の最大の問題点は、地方自治の視点と日本の地理的な特徴把握が欠落していることです。国会議員は全国民を代表するのですが、その地域の代表者でもあるのです。だから実際に、自治体の首長は、例えば何か大きなプロジェクトを立ち上げる時は、地元選出の国会議員と相談したりします。
そして、その国会議員を選ぶために、全国をいくつかの選挙区に分けています。日本のように山あり谷あり半島あり、湖、島ありの複雑な地形の国を均等に分けることなど出来ません。
島の数だけでも1万4000くらいあります。島の一人と都会の一人は住民という観点から「重さ」が違って当たり前。憲法はその第8章で地方自治を認めています。どこに重点を置くかというのは政治的な判断であり、それに対して司法が肩越しに判決を出すことはあり得ないと思っています。
(「中選挙区・小選挙区対照表」)
「平等」ですべてを判断することは出来ない
平等は、あくまでも個別具体的な場面において使うことができる調整概念です。普遍的な概念ではありません。そのため、看板のように大上段に掲げてそれに基づいて判断すると、必ず「不平等」な状況が現れます。
どういうことか。要するに、平等には実質的平等と形式的平等があり、状況に応じてどちらか一方を調整的に使うことは出来るのですが、平等という概念は調整場面でも、指標場面でも使えません。
例えば、消費税は形式的平等の考え方を採用しています。所得税や相続税は実質的平等を採用しています。これが逆だと不平等を感じると思います。月に10万円稼ぐ人も1億円稼ぐ人も10%の税金と言ったら怒ると思います。同じ数字を使っているのですが、人間には公平感という別の「モノサシ」を一人ひとりがもっているため、その10%はインチキだと判断するのです。
下のイラストを見て下さい。皆が楽しめるためには、実質的平等の考え方が必要です。形式的平等(左側)では、一番背の低い子が野球を楽しめません。
(「note」)
アダムズ方式は形式的平等に基づく方式
日本のような国でアダムズ方式を使えば、様々な矛盾が出てきます。東京のある選挙区では、国会議員の選挙区が、市会議員の選挙区よりも狭いということが起きています。
何でそういうことが起こるのか。適用する原理を間違えているからです。日本の選挙は、地形の関係もあり、実質的平等によって選挙区割りを考えなければいけないのに、違憲訴訟を気にして形式的平等を使ってしまっています。そのため、そのようなことが起きたのです。
アダムズ方式というのは、アメリカの第5代大統領の名前を取っています。アメリカのような均質な大地が広がる国であれば、選挙区割りを形式的平等を使って決めても不公平感は生じないでしょう。日本のような複雑な地形の国にアダムズ方式を適用すること自体に無理があります。
(「毎日新聞」)
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