「今日は稲毛幸子さんが書かれた『1945 わたしの満州脱出記』(ハート出版、2022年)という本を紹介したいと思います。書いた稲毛さんは、今年で99歳になります」
「ということは、実体験を書かれているのですね」
「前回のブロクで話題にした映画の最初の始まりが満州でした。そして、この満州について多くの日本人が余り知らないのではないかと思っています。とにかく、教科書にきちんと書かれていませんので、これを機に深めて欲しいと思います」
「この前、満州は中国ではないと言われたので、驚きました。あの後、家に帰って地図で確かめちゃいました。確かに、万里の長城の外にありました」
「ということは、もともとは中国ではないということです。満州族の居住地なんです。日本は1932年に満州国を建国して清王朝の末裔の溥儀を皇帝に立てます」
「ラストエンペラーですね。ただ、満州国は国際的に承認されなかったと習いましたけど……。何故、承認されなかったのですか?」
「満州には豊富な地下資源もあり、防衛上も要衝の地だったのです。そこを日本に押さえられてしまうのはまずいという判断が欧米列強の共通認識になっていったのだと思います」
「ロシアもそうでしょうけど、アメリカが日本に対して敵視政策を取りますよね」
「植民地競争の時代でしたので、後発組の中にアメリカ、そして遅れて日本でした。アメリカは特に日露戦争以降、日本をライバル視して、黄禍論が頭をもたげます」
「アメリカの態度が今とは、全く違いますね」
「日本は鬼畜米英と言って敵対心を持っていた時代ですからね」
「ここから本論です。↓ 表紙写真は満州の夕陽です」
漢民族による融合政策が領土拡張の手段
現在、中国は中華民族という欺瞞的な言葉を使っていますが、もともとそういう名称の民族はありません。中国は漢民族や満州民族、モンゴル族、ウイグル族、チベット族といった民族が共存する他民族国家です。55の民族がいると言われています。歴史的に見てもそういった民族が各地を分割統治したり、全土を統一したりして入れ替わり立ち代わりして中国という土地を治めてきたのです。
漢民族の統治の方法は、融合政策です。日本は共存しようとしますが、彼らは他民族の言語,習慣、風俗を消し去ろうとします。ウイグル民族に対する仕打ちはまさにそういったものですが、これは漢民族の特性というか、領土拡張の一つの手段になっています。
中華民族と言う言葉は暗に、満州族やウイグル族、チベット族などの分割統治は認めないというメッセージになっています。そして、それは同時に台湾も中華民族の地、中国は1つという理屈に使われています。満州は本来的に中国ではありませんが、中華民族が認められれば、中国と考えても何も問題はないということなのです。
(山口哲二郎 on Twitter)
8月9日を境に満州は地獄の地になる
作者の稲毛さんが満州の北部にある北安に結婚3か月で渡ったのは1944年1月です。彼女が19歳、ご主人が29歳でした。厳冬期には零下30度になるという酷寒の地だったそうです。ご主人の仕事は、林業です。森林伐採、造林、測量といった仕事をしていたのです。
自然豊かな地での生活。二人の子供に恵まれます。ところが、その幸せな生活が1945年8月9日のソ連の侵攻によって打ち消され、「私たちの生活は、この日を境に一変し、天国から地獄の底に突き落とされてしまった」のです。この後、ソ連軍の兵隊が略奪に各家庭に押し入る様子が事細かく書かれています。最初の数日は、様子見を兼ねて物色をします。その際に、女性の品定めをしていたのでしょう。次に起きた「悲劇」についても書かれています。
それらを読むと、多分こういったことをウクライナでもしたのだろうと思って読みました。民族のDNAは受け継がれるからです。
(「綜合的な教育支援の広場」)
情報統制?―― 北方領土が「人質」だったのか?
侵入、略奪から始まって、いよいよ男の本能を剥き出しにする事件が起きます。少し長いですが、そのまま紹介します――「私たちが一番恐れていた婦女誘拐、強姦がいよいよ始まりました。狙いは若い娘たち。……我が家の右隣のМ家にも、ちょうど19歳になる娘さんがいました。親ももちろんですが、本人の心配は想像以上に深刻で、毎日戦々恐々の思いで日々を送っていました。そして、遂に事件が起きました。突然М家より1発の銃声とともに家族たちの悲鳴が聞こえました。……3人の露兵が隣の娘さんを連れ出し、……М家の奥さんが娘さんにすがりつき、必死に離すまいとしますが、露兵の一人が奥さんの腕に、いきなり銃で無情の一撃を喰らわせたのです」
「奥さんの手が離れ、そのまま地面に体が崩れ落ちました。娘さんは悲痛な声で、『母さん!怖いよ、助けて!』……奥さんはその場に座り込み、しきりに娘さんの名を呼んで、号泣するばかりでした。娘さんは、最後まで諦め切れず必死に抵抗をくり返し、何度も何度も後をふり返って母を呼び続けていましたが、とうとう視野から消えて行ってしまったのです。去った後も親子の呼び合う悲しい声だけが、こだまのように余韻を残して響いていました。そして、これが母娘の永遠の別れとなってしまったのです」(『わたしの満州脱出記』36-37ページ)
昨日紹介した映画もそうですが、この本は今年になって出版されたものです。何故、今まで沈黙していたのか? これまでは、北方領土を「人質」にしての「友好」という言葉が壁となって、ロシア(ソ連)の蛮行が封印されていたのではないかと思っています。
この方は、その後苦労に苦労を重ねて日本に帰ります。1946年9月28日です。帰国の途に要した月日は1年以上に及んだのです。その内容が本の中に具(つぶさ)に書かれています。こういったことを多くの人たちが早く知っていれば、ソ連(ロシア)や中国外交も対応が違ったのではないかと思います。代は違えども、受け継がれるDNAは同じだからです。それは、今のロシアのウクライナに対する行状を見れば明らかでしょう。
苦労を重ねて、稲毛さんが仙台に辿り着いた時は、見渡す限り焼け野原だったそうです。負ける戦争を何故したのか、その辺りのことを次回は書きたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。
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