「今は女性の社会進出を後押しするような風潮ですが、余りヒートアップしない方が良いと思っています」
「ヒートアップというのは、どういうことですか?」
「管理職に占める割合の目標値を出したり、国会議員、地方議員の中に占める女性議員の割合を国際比較したりすることです」
「数字を出して比較することによって立ち位置は分かりますよね」
「立ち位置の確認で終わっていないですよね。割合が少ないと上げなくてはいけないと人は思ってしまいますし、低いことを批判する記事も目に付きます」
「自然に上がることは良いのですよね」
「自然に優るものはないと思っています。私が話題にしているのは『人為』です。昨日、クオーター制を話題にしましたが、ひずみが出てしまい、最後は結局上手くいかなくなってしまいます」
「素朴な疑問ですが、どうして『ひずみ』が出るのでしょうか?」
「本来はスタートラインを同じにして競争しなければいけない分野に、女性という理由だけで特別ルールで取り扱うからです。男女の100m競争を女子だけ10m前から走らせてしまうようなものです」
「女子の中には、男子より普通に速い子がいますからね。障害を持っている方は、どうですか?」
「障害の度合いに応じて特別ルールを設ける必要があると思います」
「実質的平等の考え方を使うのですね」
「そうですね。昨日の話が為になっていますね。ここで逆に形式的平等を使うと、差別感が出てしまうからです」
「スポーツの場合は、男女のフィールドが原則的に違うので分かりやすいのですが、実際の社会ではその辺りが厄介ですね」
「ここからが本論です ↓」
女性の社会進出の増加と多様性とは何の関連性もない
多様性という言葉を掲げて、社会の主要なポストに女性を多く起用することが時代の流れのように捉えている方がいますが、女性管理職の割合が増え、女性議員の割合が増えたからといって、自動的に「多様化」が進み、社会が進歩する訳ではありません。すべて、国ごと、分野ごと、ケースバイケースで考える必要があります。そして、女性の社会進出と多様性とは直接の関係性はありません。一つのきっかけになることはあっても、イコールではないことは確かです。
ジェンダーギャップ指数というのがあります。各国の男女格差を数値化したものです。スイス非営利財団世界経済フォーラムが2006年から毎年発表しているものですが、日本人はこういった数字の比較が好きな国民性なので、気にする人が多いと思われます。たびたぴ、新聞でも取り上げられていますが、気にする必要は全くないと思います。日本の国づくりの考え方は、世界の国々とは基本的に違うからです。
(「電通報」)
少子化の大きな原因の一つは、お見合い文化が崩れたため
世界には大きく分けて狩猟民族の国と農耕民族の国があります。狩猟民族の国々では個人主義の考え方が育ち、農耕民族の国では家族主義の考え方が育ちました。日本は後者ですが、耕作地である土地を家族で守り、それを子孫に受け継いでいくという考えが自然に芽生えていったと思います。そこから役割分担論が出てきます。食料を専ら調達するのが男性の役目、子育てや家の中の仕事は女性の役目ということが自然に定着していったのだと思います。そういった考え方の名残が、漢字の中にも残っています。例えば、嫁、家内はそうです。奥さんという呼び方もそうです。
ここから少し話が横道にずれますが、冠婚葬祭というのは、家族や親族の行事として執り行われてきたものです。今でも結婚式では、慣例的に「ご両家のハレの日をお祝いして」と司会者は挨拶します。憲法的に言えばご両人なのでしょうが、式場の案内板には〇〇家となっています。結婚は個人と個人ではなく、家を存続させるという大きな目標があり、それを達成するための手段と考えられていたのです。許嫁(いいなづけ)ということで、両家の親が子供が幼いうちに勝手に結婚を決めてしまうこともあったのです。江戸時代までは封建の身分制社会が続きましたので、階級を飛び越えての勝手な結婚は許されませんでした。そんなこともあり、結婚の相手を親や知人がツテを頼って探すのです。結婚式の祝言の式で相手の顔を初めて見たということも珍しくなかったようです。
今、日本は少子化が進んでいますが、その原因についていろいろ取り沙汰されていますが、一番の原因は日本で伝統的に行われてきたお見合い文化が崩れたところにあると思っています。カップリングが上手くいかなければ、子供が生まれるはずがありません。「時代が変わったから恋愛していいよ」と言われて、急に国民の行動様式や生活様式が変わるものではありません。都会の人間砂漠の中に放り出されて、戸惑っている若者たちが増えていると思います。自治体あるいはNPO法人が中心になってお見合い文化を復活させることが必要だと思っています。
(「CAMPFAIR(キャンプファイヤー)」)
21世紀の日本の実情にあった女性の生き方・あり方を説くべき
以上見てきたように、日本は農耕民族の国であり、家族主義の考え方で国づくりをしてきました。女性は「奥さん」であり、「表さん」ではないので、社会の中に飛び込んで活躍するというのは、本来的には想定外の在り方なのです。
女性が選挙権をもったのは戦後になってからです。明治の時代になって近代的な学校制度がスタートしますが、女性の義務教育の就学率が50%を超えたのは明治の終わりから大正時代にかけてです。大正生まれの私の母が自分の親に「高等女学校に行かせて欲しい」と頼んだところ「女に学問はいらん」と言われ、「なんでや」と聞くと、「女が学問なんかしたら生意気になるからや」と言われたそうです。わずか80年くらい前の話です。
そのように西洋諸国とは出発点も違いますし、国づくりの考え方も違いますので、女性の管理職の割合の数字を出して、比較をしても余り意味がありませんし、順位が低いのはある意味当たり前です。日本の歴史や国づくりの考え方を知らずに、単純に数字だけ見て「日本は大きく世界に遅れ」(「日経」2019.12.14日付)として「進まぬ女性の社会進出」と嘆いてみても、余り意味がないのです。むしろ大事なことは、西洋的な男女平等論に基づく女性の在り方を猿真似的に説くのではなく、21世紀の日本の実情にあった女性の生き方・あり方を説くべきでしょう。
他国との数字の比較からは、何も生まれないと考えた方が良いでしょう。
(「テレビドガッチ」)
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