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農耕民族には俯瞰力がつくような教育プログラムが必要 ―― 民族の弱点を自覚する必要あり

女性

「ねえ、聞いて下さいよ。月下美人の花がまた、咲いたんです。今年になって2度目なんです」

「1年に何回も咲く花ではないですよね」

女性

「今まで、ずっと1年に1回、咲くか咲かないかでした。咲いたとしても、一晩だけ咲いて朝にはしぼんでしまいます」

「「月下美人」とは、よく言ったものですね」

女性

「美人薄命、私の命もきっと薄命だと思います」

「そういうことを言う人は、100歳まで生きると思います。「月下美人」は中南米が原産です。亜熱帯植物なので、温暖化の影響もあり2回目の開花となったのではないでしょうか?」

女性

「いえ、そうではなく、私の手入れが良かったからだと思っています。常に声を掛けて、気を配ってきましたから、それに応えようと咲いたのだと思います。そして、実はつぼみは後2つもあるのです」

「じゃあ、あと2つ花が咲くということですか?」

女性

「1つは、かなり大きくなっていますので、ここ2,3日のうちに咲くと思います。もう1つはちょっと分からないですね。まだ、小さいので、発育不全でそのまま終わってしまうかもしれません」

「自然界は微妙なバランスの上に成り立っていますからね。地球上の動植物たちは、実はそういうことを人間に教えているのではないかと、最近思うようになりました」

女性

「偶然と必然、そのコントラストの中で人智が及ぶ範囲というのは、意外と限られているかもしれませんね」

「何か、最近になく凄いことを言い始めましたね。どうしたのですか?」

女性

「月下美人の狂い咲きだと思います。ここからが本論です ↓」

 

 動植物を愛ぐみながら我が身を省みる

植物ですら、様々な要因が絡み合って開花します単純に水と養分をあげていれば咲くというものでもありません。面倒を見ても、咲かない時があります。面倒を見たつもりでも、有効的ではなかったということもあります。そういう意味では、人間の社会と同じかもしれません。中には、一晩で月下美人を10輪以上咲かせる人もいるのです。

実は、人間は動植物に対して親しみをもって接することができる「種」でもあります。それは、人間だけが持っている一つの特性です。そして何故、そのような特性が備わっているのでしょうか。様々な観点から、いろいろな回答が返って来そうですが、我が身を振り返る一つのきっかけになることは確かです。思いを込めたけれど、結果として現れないこともあります。因果関係で成り立っている社会なので、何らかの原因があるはずです。思いのこめ方を振り返るきっかけにしろということなのかもしれません。

(「アグリジャーナル」)

 農耕民族には俯瞰力がつくような教育プログラムが必要

日本人の特性であり欠点は、一つのものを見る時に周りと同じ見方をしがちだということです。実はこれは、農耕民族のもっているDNAが為せる業でもあります。周りに合わせようとする、合わせるのが上手い、余り感情を出すことを由としないなど、良い面での特徴があります。例えば、水と肥料さえ与えていれば、花は咲くはずと思い込んでしまうと、花が咲くまでひたすら水と肥料をあげようとします。あげ過ぎて、ダメにしてしまうのが日本人には多いと思います。思い詰めて、真面目に考えれば考えるほど、視野を狭めていくという傾向があります

狩猟民族は一つの地域だけ見つめていたら食料を確保できないこともありますので、広い地域を問題意識をもって俯瞰することの大切さを知っています。何万年にもわたる狩猟生活の中で、そういうDNAが身体の中に入っていますが、農耕民族には備わっていません。俯瞰する必要はなく、自分の家の農地だけを見つめて、隣近所と歩調を合わせれば良いと考えてきたからです。ただ、俯瞰する力というのは、その人が経験を積むことによって身につけることができます。

例えば、幕末から明治期にかけて活躍した渋沢栄一がそうです。ちょうど今、NHKの大河ドラマで放映されていますが、農家の出身ですが商売人としての経験、武士となり尊王攘夷を掲げての倒幕運動に飛び込んだり、幕臣としてヨーロッパへの留学を経験したりということで様々な世界を見る中で視野を広げていきます彼の数奇な運命が、彼に俯瞰力をもたらしたと言えるのですが、本来は教育によって俯瞰力が身に付くようなプログラムを組むことを考えるべきなのです。

 太平洋戦争への道」―― 農耕民族の弱点が多く出てしまった

 視野を狭めて、自らを苦境に追い込んでいったのが、昭和の初めの日中戦争を経て、アメリカとの全面戦争終結までに至る十数年間に見受けられます。

客観的に見て、勝てるはずがない戦争に何故突入していったのか。そもそも中国の本土の奥深くにまで進攻する意味は殆どなかったのです。特に何か目標めいたものがあった訳でもなく、戦線だけが拡大されていったのです陸軍は専ら中国本土を舞台にして戦い、海軍は太平洋を舞台にアメリカと戦うというように、戦略的にも滅茶苦茶でした

『太平洋戦争への道』(NHK出版新書、2021年)という本があります。半藤一利、加藤陽子、保阪正康各氏の対談形式で書かれた本です。彼らの共通認識は1931年の満州事変から1941年の真珠湾攻撃に至るまでを昭和日本が犯した最大の失敗としている点です。

そのような失敗をどうして犯したのか。それまでの流れを簡単に辿ると、視野を狭めるようなことを何回も繰り返していることが分かります。一番目の問題は、中央集権的教育体制です。国定教科書を使って、軍国主義的な考え方、つまり一つの価値観が子供たちの頭を支配するようになってしまったのです。ただ、この体制は現在も続いています。国定教科書ではなく検定教科書ですが、一斉授業形式による全国一律教育が特に問題にもならずに相も変わらず続いています。地方分権教育を進め、地域ごとのカリキュラムを策定するべきでしょう。国民全体の視野を広げるためにも。

二番目の問題は、軍部が権力を掌握してしまったことです。1931年に満州事変が起きますが、そのきっかけは柳条湖での南満州鉄道の線路爆破事件です。これを口実にして関東軍が戦線を拡大し、ついには満州国を建国してしまいます。国内では、5.15事件(1932年)、2.26事件(1936年)が起き、その過程の中で軍部の政界での発言力が高まっていきます。軍隊というのは、動き始めると前に崖があっても突き進むという習性があります。

三番目の問題は、マスコミの問題です当時は「朝日新聞」、「毎日新聞」ともに好戦的な記事を書きました。マスコミが軍部の応援団に回ってしまったのです。そういうこともあって、日本国中狭い視野の中で、勝つはずのない戦争の戦況を見つめるという状態だったのです。


   「失敗から学ぶ」―― 敗戦までの一連の歴史を総括すべき

四番目の問題は、日独伊三国軍事同盟を結んだことです。ドイツからの軍事同盟の提案は、1938年からあったのです。その時は日本政府内に於いて意見が分かれていました。ところが「1939年から40年にかけて、日本はどんどんナチス・ドイツに傾斜していきました」「日の出の勢いのヒトラー、憧れのドイツと同盟を結べば何かいいことがある、その程度の認識だったのではないでしょうか」(半藤一利談/前掲書、154-155ページ)。ますます視野を狭めることになります。

結局、この同盟を結ぶことにより、アメリカの反発を呼び込み厳しい対日姿勢となり、それが「ハル・ノート」として出てくることになります。「ハル・ノート」というのは、1941年11月26日に日米交渉中のアメリカのハル国務長官から日本に提示された交渉文書のことです。中国やインドシナ半島からの日本軍の全面撤退、三国軍事同盟の否認など、日本にとって厳しい要求が示されていました。

この条件は呑めないということで日米開戦が決定されることになりますが、その時の大本営政府連絡会議のトップの東条英機は首相であり、陸相です。そして構成メンバーの多くは軍部関係者で占められていました。当然のように、戦争が始まるのですが、大義名分がない戦争だったのです。「大東亜戦争」と言ったり、「太平洋戦争」、さらには「第二次世界大戦」というように名称が定まらないのは、そのためです。

「大局的な歴史観が残念ながら欠落していました。それは、軍事主導の政策決定がもたらした、最大の欠点だと思います。私はそれを非常に残念に思うし、それを教訓として学ばなければいけないというのが、率直な気持ちですね」(保阪正康談/前掲書、195ページ)としています。

「失敗から学ぶ」という言葉があるように、大失敗から多くのものを学ぶことができます。今回は「視野」という視点から簡単にまとめたのですが、敗戦までの一連の歴史についてきちんと総括されていないと思います。それが、中国や韓国、北朝鮮といった隣国に対して戦後の政治家たちが常に何かあるとブレてしまう原因となったと思っています。

まだ遅くはありません。日本的な視点から、きちんと総括するべきだと思います。

(なお定まらない「あの戦争」の呼び方/毎日ことば/mainichi-kotoba.jp)

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