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日本に於て、金融資産に占める現預金の比率が高いわけ ―― 金融教育が「家庭科」にとどまる構造的理由 / 国抱えで出発した証券市場

女性

「2027年、つまり来年から「こどもNISA」が始まると聞いたのですが、今一歩意味がよく分かりません」

「NISAは「少額投資非関税枠制度」という意味ですけど、そのこと自体が分かっていますか」

女性

「NISAという言葉はよく聞くようになり、無税という意味は分かっています」

「何となくあやふやな理解だと思いますが、株や投資信託などの金融資産を運用して仮に利益が出た場合は、原則的に一律20%の税金が課せられますが、それが0になるというものです」

女性

「こどもが資産運用できないと思いますけど……」

「正確に言うと、こども名義で、つみたて投資枠に限って0歳から利用できるというのがこどもNISAです。親が教育資金として預入したものに対しての運用利益に、税金はかからないというものです」

女性

「ジジ、ババにもらったお金でも良いのですよね」

「生前贈与の問題がありますので、事前に限度額を調べて下さいね。それとは別に、孫の学費を予め渡したいというニーズがあったと思います。また、親としても子供の学費について別枠で確保したいという願望があり、それがこういったかたちで制度化されたのだと思っています」

女性

「中には、投資で教育資金を手当てするのは、危険ではないかという意見がありますが……」

「投資期間と、どのようなところに投資するかだと思いますが、それについては研究が必要かもしれません。証券会社の窓口で相談されれば良いと思います」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「ダイヤモンド・オンライン」提供です」

 日本人の「現預金偏重」は合理的な選択である

『日経』(2025.12.18日付)の報道によると、日本の家計の金融資産に占める現預金の比率が18年ぶりに50%を割り込み、49.1%になったとのことです。日本の国民が保有する金融資産の総額は2,286兆円に達しており、これは世界的に見ても大きな額です。現預金の比率が高いということは、この資産が経済的に十分に活用されていないことを意味します。要するに、社会の中で、“半分眠っている”状態ということなのです。

日本人の場合、普通預金や定期預金として資産を保有する割合が非常に高いのが一つの特徴です。例えば、ヨーロッパでは32~35%程度、米国に至っては約10%程度だと推測されています。これらの国では、銀行預金は最低限の生活防衛資金や流動性の確保として保有するという位置付けです。一方、日本の家計では、株式や投資信託への配分は2割弱程度にとどまり、「貯蓄から投資へ」が定着していません。その結果、米国では株式や不動産価格の上昇を通じて資産形成が進んだのに対し、日本では運用のリターンが伸び悩むという対照的な構図になっています。

この差は、単なる国民性の違いではありません。日本の金融市場をめぐる歴史的経緯が、国民に「投資に対して積極的になれない環境」作ってきた結果であり、そこに学校での金融教育の問題が重なっています。以下では、それらの点について順番に見ていきます。


(「トモタク」)

 「官許市場」として出発した日本の証券市場

明治政府は、日本銀行の設立前に民間銀行をつくります。なぜ、その順番が逆になったのかというと、維新直後は藩札が乱立し、政府自身が慢性的な財政難を抱え、金融行政を担う官僚機構が未整備・未成熟だったからです。まず民間銀行網を全国に整備し、その上に中央銀行を設置するという段階的な戦略が取られました。そのために制定されたのが、国立銀行条例(1872年)であり、これに基づいて設立された最初の銀行が、渋沢栄一による第一国立銀行です。

この「国立」は国営という意味ではなく、「国家公認」の意味です。国が認可した最初の株式会社の銀行だったのです。このような銀行が全国で153行設立され、第一国立銀行券、第二国立銀行券という具合に、銀行ごとに銀行券を発行したのです。このような統一通貨なき時代の1878(明治11)年に東京株式取引所という名称の証券取引所がつくられます。日本銀行の設立(1882年)よりも前であり、急いだ理由は「富国強兵政策」のためだったのです。

明治政府は鉄道、鉱山、銀行、軍需関連事業を官民共同で整備します。「上からの資本主義」と言われる所以です。本来であれば、「統一通貨 → 中央銀行 → 企業活動の活発化→資本市場(株式市場)」という順序が王道ですが、日本では統一通貨の前に、資本市場を無理矢理つくります。その市場は、自由な意思決定の場ではなく、国家目標を達成するための資金を調達する場として位置付けられました。そのため、日本の証券市場は当初から、官の認可が前提であり、取引対象は国家関与証券が中心、破綻は極力回避されるという性格を帯びることになりました。証券市場がつくられ、価格は動きますが、最終責任者は誰もいないという“少し危うい市場”が形成され、これが敗戦をはさんでその構造が現在まで連続しています。この不安定さこそが、国民が証券市場に慎重な姿勢を取り続けてきた大きな理由です

(「JPX/株式取引所開設140周年記念」)

 金融教育が「家庭科」にとどまる構造的理由

現在、日本の金融教育は、社会科ではなく、家庭科の中で教えることになっています。学問的には、経済学の中で扱うべきことなので、「政治経済」か「現代社会」の科目の中で教えるべきだと思います。ただ、それが出来ない大きな理由があるのです。

社会科で金融を教える場合、市場は誰が設計したのか、ルールは誰が決めているのか、破綻・暴落時、誰が何をするのか、国家はどこまで関与するのか、そして責任は誰が負うのかということに触れる必要があります。つまり、市場の仕組みに併せて、責任体制について明確にする必要があります。もう少し具体的に書きますと、証券市場の開設主体はどこで、その主体者はどのような場合にどんな責任が課せられるのかといった問題です。

例えばアメリカでは、市場の混乱があった場合は、連邦準備制度理事会(FRB)、SEC(米国証券取引委員会)委員長、財務長官が公の場(議会、記者会見)で説明責任を果たします。その後、人事責任、制度責任というかたちで検証が進みます。このように「何かマイナスの出来事があった場合は、そこには必ず何らかの原因があり、それに伴う責任が発生する」という考え方の下、最終的にシステムが見直されます。ところが、日本にはこうした責任処理の枠組みが制度として存在しません。従って、社会科の中で教えることができず、家庭科の金銭管理の中で預金としての金融を教えるしかないという状況なのです

今後、日本で本当に必要なのは、「投資を勧める金融教育」ではありません。 必要なのは、「市場とは誰が作り、誰が責任を負う仕組みなのかを説明できる制度」です。市場の失敗をすべて個人の自己責任に押し付ける限り、国民は合理的に市場から距離を取ります。逆に言えば、責任体制を明文化し、説明責任・人事責任・制度責任が連動する仕組みを整えられれば、国民は初めて市場を「社会のインフラ」として受け入れることができます。金融教育を社会科で扱えるかどうかは、教育論ではなく、国家の統治構造そのものが問われている問題です。そこに踏み込めるかどうかが、日本の資本市場と民主主義の成熟を分ける分岐点になるでしょう。

(「マネーまるわかり-第四北越銀行」)

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