「重要な問題にぶつかった時は、どうしていますか?」
「えっ、そんなことあったかなあ? まず、自分で考えて解決がつかない場合は、誰かに相談します」
「どうして、こんな質問をしたのかと言うと、困った時に、人はどういう行動をするのかということを確認したかったのです」
「そうですか。順番としては、まず自分のことなので、自分で何とかしようと考えます」
「その場合は、何か手掛かりにするものはあるのですか?」
「手掛かりですか? 自分の今までの経験ですね。それで対応できなければ、誰かに頼ると思います」
「実は、国も同じなんですね。何かあった場合は、今までの歴史を紐解きます。そこから解答を得ようとするのです」
「『歴史に学ぶ』という言葉があるのですが、そういうことだったのですね」
「日本の場合は、世界で最古の歴史を刻んできた国ですので、そこから多くのことが学べるのですが、宝のもち腐れになっています」
「宝のもち腐れというのは、どういうことですか?」
「簡単に言えば、役に立たない状態で日本の歴史が語り継がれているということです」
「歴史の教科書のことを言っているのですか?」
「そうですね。今の歴史教科書は、単なるカタログ教科書なので、そこから何かを導き出すことはできません」
「ただ、通史を勉強しなければいけないので、あのような形式になるのは仕方がないと思っていますけど……」
「私もそのように思ったこともあったのですが、今回、『偉人たちの日本史』(ビジネス社)という本が出版され、それを見て、これなら日本の歴史を学びながら、子供たちも自分の生き方を考えることが出来る本だと思いました」
「歴史の大河ドラマは好きですが、学校の日本史はどうして好きになれないのかなって、ずっと思ってきたのですが、そういうことだったのですね。ここからが本論です」
目次
人でも国でも指針が必要
西欧諸国には『聖書』(バイブル)があります。アメリカでは大統領就任の際には、『聖書』に片手を載せて誓いの言葉を言うのが慣例です。人間は、主観的な動物なので、時には方向を見誤ることがあのます。それを防ぐための人生の指針として彼らは『聖書』から多くのことを学んできたのです。
翻って、現在の日本を見てみます。現在は、羅針盤がない状態で日本丸は航海を続けています。羅針盤になるものとしては2つ考えられます。一つは、『聖書』のような、誰もが忖度をもって紐解くことができる教えです。日本は多神教の国ですので、それぞれの宗派ごとの経典、教典、教えなどがあります。ただ、西欧のキリスト教国やイスラム教国と違って、絶対的な経典というものはありません。
二つ目は、その国の歴史です。ただ、日本の学校で習う歴史は、カタログのような歴史です。つまり、何年に何があったかということは分かるのですが、どうしてそういうことが起きたのかとか、その歴史舞台で登場人物たちが何を考えたのかということは一切分かりません。商品カタログと同じで、品物と値段と売れ筋商品、その利便性については分かるのですが、それ以上のことは分かりません。
要するに、きちんとした羅針盤のようなものがない状態になっているということです。日本の戦後、特に20世紀後半以降、中心軸が揺れ動くようになり、政治も経済、さらに外交も不安定なのは、そんなところに原因があるのです。
(「AFPBB News」)
歴史教科書の採択の仕方を根本的に変える必要あり
「従軍慰安婦」という造語を非常識にも載せてしまうような方々が日本の歴史教科書の編纂に携わっています。中身は推して知るべしでしょう。現在は検定制度が悪用され、特に社会科の教科書は反日的な考え方を発信させるための道具になっています。
そのような状況なので、検定制度そのものが必要ではないと思っています。現場が多くの教科書候補の中から、子供たちの実情に合うような教科書を自由に採択して、その結果を教育委員会に届け、相応しくないものであれば、そこで除外すれば良いと思います。教科書候補の書籍は多ければ多いほど良いし、自由に出版社が申請して、その中から選ぶということで良いと思います。自由競争の中で、良書というものは残っていくものです。
教科書の検定、選定、教育委員会で採択といった一連のプロセスは闇に包まれています。ここだけを見ると、共産主義社会のようです。選定を巡って教科書会社との癒着や賄賂といったことも過去に何回か起きています。起こってしまうような採択ルートを作るからです。
(「文部科学省」)
その人物の生きた時代や関わった人や関係地域というように派生的に学ぶ
「カタログ歴史教科書」であれば、すべての商品が分かるが、ある特定の商品だけを載せるような教科書だと何があるか全く分からないのではと思うかもしれません。そのことについて、自動車を例にして説明したいと思います。自動車は人間の生活様式を大きく変えた商品なので、それを中心にして、関わった人物や国、そして地名などをそこに知識として盛り込むのです。
例えば、それが誰によって、どのように開発され、どこで作られるようになり、そのためにどのような影響を人間生活に与えたのか。その中で、様々な国があること、社会生活の変化やエネルギーと環境の問題を学びます。つまり、誰かを中心にして、その人を中心に歴史を学ぶという方法をとるのです。
日本の歴史の中で、それぞれの時代の顔のような人もいますし、重要な節目で重要な役割を果たした人がいます。そういう人の生き方と同時に国の歴史を学ぶのです。まさに、生きた歴史を学ぶことが出来ますし、その後は自分の生きる上での指針になってくれるでしょう。
ここに倉山満氏の『教科書では絶対に教えない偉人たちの日本史』(ビジネス社、2021年)という本があります。扱っている人物は、全部で28名です。中には、28名で通史がどうして教えられるのかと思うかもしれませんが、教えることが出来ます。これは授業のやり方次第なのです。
実際に、徳川家康を題材にしてどのような授業になるか
例えば、この中では、徳川家康を重要人物として28人のうちの一人として紹介しています。彼の生涯を扱いながら、彼に関係する人物として織田信長、豊臣秀吉、今川義元など多くの戦国武将を紹介できます。そして彼ら戦国武将たちの居城があった地のことや秀吉の朝鮮出兵があったので、朝鮮のことを扱うことができます。
授業は、どんどん横道に逸れても構わないと思います。子供たちの興味や疑問に基づいて進めれば良いと思います。家康は貿易振興を図ったのでオランダ、さらにはキリスト教、そうするとカトリックとプロスタント、そこから宗教改革の話と、世界史の分野になっても良いと思います。フランシスコ・ザビエルはカトリックの神父ですが、どうしてカトリックの神父が日本に来たのかという謎解きになっても良いと思います。
そういう歴史の流れを学びながら、家康の生き方を最後にまとめとして扱うことができれば、子供たちはそこからまた学ぶことができます。家康が残した遺訓というものがありますので、紹介します。
【遺 訓】
人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し 急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なく 心に望みをおこらば困窮したると気を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思へ
勝つことばかりを知って 負くるを知らざれば害その身に至る
己を責めて人を責めるな 及ばざるは過ぎたるより優れり
旧仮名遣いを知る機会にもなるでしょう。「堪忍は無事長久の基」とは、どういう意味か、と質問しても良いと思います。
家康は自分の一生を振り返って、その中から学んだことをこの短い文章に込めたのです。いろいろな形で授業に使えると思います。
(「刀剣ワールド/城」)
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