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日本はなぜ「人材ロス国家」になったのか (その1) ―― 明治国家は「哲学なき国家」/ 官僚制から軍制まで、西洋の「猿真似国家」

女性

「前回は、急遽、外国人法人の問題を入れさせて頂きました」

「話を元に戻して、「人材ロス国家」について今回と次回の2回にわたって論じていきたいと思います」

女性

「思ったのですが、省令の改正は一般の国民は知る術がありませんので、気が付かないですよね」

「そうですね。今回はたまたまニュースで取り上げられたので分かったのですが、そうじゃあないと分かりません」

女性

「NHKも重要な問題と思ったから取り上げたのでしょうね」

「前回のブログの話を1,000字位にまとめたものを、首相官邸のホームページにメールで送っておきました」

女性

「行動が素早いですね。最後は何てお願いしたのですか?」

「実は省令改正は2025年10月10日公布され、10月16日から施行されています。高市内閣の発足が10月21日なんです。だから改正は石破内閣の時です。現在の大臣は掌握していないと思いますので、「関係省庁の大臣に対して、省令改正の真意について調べるよう指示を出していただきたい」と書きました。」

女性

「上手くいくと良いですけどね。ところで、話を戻しますけど、「人材ロス国家」というのは、造語ですか?」

「造語です。広めて頂ければと思います」

女性

「要するに、ミスマッチが多いという意味ですか?」

「それだけではありません。日本は、”一人の人間としてきちんと育てていない国家”になっています。しかも、その根が深いという状況です」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙は「DXマガジン」提供です」

 明治国家が抱えた最初の欠陥:「国家哲学の不在」

日本が現在「人材ロス国家」となっている背景には、長い時間をかけて累積した構造的な問題があります「少子化・人口減」はあくまで表面的な現象にすぎず、その背後には明治以来160年に及ぶ「理念なき国家建設」の帰結があります。「少子化・人口減」は腫瘍のようなものです。大事なのは、腫瘍を作ってしまった体質、そして生活習慣を見直すことです。日本がなぜ人材を生かし切れない国家になってしまったのか、その大元の原因を探っていきたいと思います。それを探ることは、実は「少子化・人口減」の原因を探ることにも繋がるのです。

明治の為政者たちには、国家をいかに存立させるかという哲学がありませんでした。ある意味、致命的な欠点でした。国家像・人材観・教育観・外交観のいずれにおいても、自国の歴史と文化を基礎に据えた理念を持ちませんでした。本来、国の独立と長期安定を考えるならば、隣国の中国・朝鮮との友好関係を維持し、時には同盟関係を築くことこそ、国家存続の最優先課題となるべきでした。

しかし明治国家が選んだのはその逆の道でした西洋列強の模倣を最優先し、軍事力に依存した国威発揚という危うい「猿真似国家」路線を突き進みます(下の絵)。この時点で、日本は「現実の地政学」ではなく、「西欧への劣等感」と「制度模倣の衝動」に支配された戦争三昧の国家になってしまったのです。

(「Reddit」)

 官僚制から軍制まで、徹底した西洋模倣主義

明治の藩閥政府は律令制以来の日本的統治構造をほとんど継承しませんでした。むしろ意図的に切断しようとしました

  • 官僚制はプロイセン型
  • 軍制はドイツ式。帝国憲法もドイツ。
  • 法体系も大陸法の全面採用
  • 教育制度は国家主義的画一教育へ転落

これらは「制度を持てば近代国家になれる」という誤った前提に基づくものでした。しかし、制度は“器”であって、国家運営の根本は“人材”にあります日本は器ばかりを整え、人材を育てる哲学やシステムを持ちませんでした。

本来、国家とは“人間を育てる構造”そのものです。一人ひとりの人間が、自分の能力と適性に見合った人生を送れるようにするのが国家の最大の役割です。経済が発展した、戦争に勝ったけれど、国民の生活はボロボロでは、どうしょうもありませんが、日本は、制度の導入に全力を注ぐ一方で、制度を運用する側の人材育成にはほとんど関心を払わなかったのです。体面にこだわり、広島、長崎に原爆が投下され多くの人が犠牲になってもなお、本土決戦を考えていた当時の上層部。この人間軽視が、「人材ロス国家」の源流です。そして、それは現在の官僚制国家に受け継がれてしまっています。自民党と国民民主が「178万円の壁」で合意に達しました。2人の党首が「関所を乗り越える」と言っていました。「関所」とは、財務省のことです。そこが最大の権力を持っているのです。

(「sojo.yamanashi.ac.jp」)

 東アジア秩序の破壊と「国家の軸」の喪失

明治日本がとったもう一つの致命的な選択が、東アジアの従来秩序の破壊でした。律令国家以来、日本は中国文明圏との安定した文化交流と相互依存の中で国家の骨格を育ててきました。東アジアとの距離感を誤らなかったからこそ、日本は千年以上国家として存立してきたのです。「鎖国」という言葉は、明治の藩閥政府が流したプロパガンダ(偽った情報)です。朝鮮、中国とは江戸時代でも交易を続けていました。

しかし藩閥政府は、この歴史的基盤を理解できませんでした。

  • 朝鮮への武力介入
  • 満洲・台湾への領土拡張
  • 清国との戦争、中国大陸での覇権追求
  • 朝鮮併合

これらの行動は、地政学的にも歴史的にも国家利益に反する判断でした。理念を持たない国家が、外部の制度を模倣し、力の方向性を誤った結果です。西欧列強は植民地主義をとりますが、彼らは自国から離れた地域を植民地にしました。隣国を植民地にすれば、力関係が逆転した時に、支配される恐れが出てくるからです。藩閥政府は戦争を戦国時代の合戦と勘違いをして、隣国を攻めたのです。ヨーロッパの国々は日本の行動に腰を抜かさんばかりに驚いたに違いありません。

それらを反省する視点を今の日本政府は持っていません。そこが実は中国、韓国との決定的な歴史観の違いです。『日経』の上級論説委員の高橋哲史氏が「習近平は何に怒ったのか」という時評(2025.12.10日付)を紙上に書いています。それによると、清朝の北洋艦隊の司令部が置かれていた劉公島を習近平氏は2018年6月に訪れ、「歴史の教訓を銘記しなければならない」と言ったそうです。日清戦争は日本が宣戦布告をし、劉公島を急襲。アジア最強と言われた北洋艦隊は全滅します。

中国は、前の王朝の話だと捉えてはいません植民地競争の時代だからと言って、大きな理由がないにも関わらず、いきなり攻撃をかけるのは許されないだろうというのが中国の感覚でしょう。そのことを習近平氏の言葉から読み取る必要があります。屁理屈を並べるのではなく、そのことについて率直にお詫びをして、争いの種を一つずつ摘み取っていく必要があります。まずは、そこからだと思います。

(「アジア歴史資料センター」)

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