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日中友好条約から50年 ―― アメリカと日本、そして台湾を恫喝する国になった / 国も人も豹変する

女性

「中国が怒りの会見をすることが多くなっていますね」

「血圧が上がっていることは確かですが、もともと彼らが要求しているものが間違っていると思っています」

女性

「台湾のことになると、どうしてあんなにエキサイトするのですか?」

「1つの中国論に拘(こだわ)っているからです」

女性

「2つではダメですか? 朝鮮半島は2つの国に分かれています」

「朝鮮半島を持ち出すと話がこじれ始めますので、今日は深くは触れませんが、彼らも半島統一ということをお互いに念じているはずです。それを言わないだけです」

女性

「どうして、言わないのですか?」

「両国は国際法的に停戦中です。そんなことを言ったら、侵略の計画を立てているということで大騒ぎになると思います」

女性

「それじゃあ、どうして台湾に対しては、中国は平気で「1つの中国」と言うのですか?」

「力関係の差が、そのような主張と行動を生んでいるのです。争えば完全に圧倒出来るだろうという計算があるので、隙あらば編入してしまえと思っているのです」

女性

「気持ちは分からないでもないのですが、新たに領土を増やしても重荷になるような気がするのですが……」

「あなたのその感覚は、日本人というか、農耕民族の感覚だと思います。我々は、心根の部分で、余分な領土はいらないと思っているのです。竹島と北方領土が取られっぱなしになっていますが、返還運動がいつの時代でも盛り上がりませんよね」

女性

「確かに、そう言われれば……」

「どうでも良いというわけではないのですが、領土については淡々と受け止めるというのが農耕民族の感覚なんです」

女性

「それは何故ですか?」

「領土については、農耕民族は2つの相反する感情を持つからです。耕作地が増え負担が増えて大変だろうという感覚と、領土そのものが広がるので国民の一員としては喜ぶべきことという2つの感情です」

女性

「なるほど。ここからが本論です ↓なお、表紙の画像提供は「Wedge」です」

 アメリカの後に付いて、中国と友好条約を結ぶ

今年が中国と友好条約を結んで50年の節目にあたります。ただ、その友好条約は日本の自主的な判断ではなく、アメリカの世界戦略の流れに乗った一つの選択だったのです。

50年前は米ソ冷戦の真っ最中です。冷戦というのは、簡単に言えば核兵器も含めた武器を持って両者が睨み合うというものです。常に両国には緊張状態の日々となりますが、アメリカの方がその負担は大きかったのでしょう。

ソ連は共産党独裁国家なので、国民を抑えることは得意ですが、アメリカはそういう訳にはいきません。ソ連との冷戦に楔を打つつもりで当時のニクソン大統領が選んだ作戦が米中の国交回復だったのです。同盟国日本に全く相談がなかったそうです。日本はその程度の位置付けだったと思います。日本は、急ぎ後追いで中国との国交を回復することになります。

中国との国交回復事務がある程度終わった時に、ニクソン大統領は側近の一人に「もしかしたらフランケンシュタインを蘇らせてしまったかもしれない」とポツリと語ったそうです。蘇ったフランケンシュタインが、世界を舞台に徘徊し始めたというのが現在の状況だと思います。

(「Wikipedia」)

 フランケンシュタイン再生に加担したのが日本

日中の国交が回復したのは1972年です。オイルショックの1年前です。高度経済成長がオイルショックによって終わるのですが、アメリカ経済独り勝ちの状況がなくなり始め、固定相場制度を維持できなくなり変動相場制に移行する時代です。変動相場制を採用した途端に、為替レートが円高に振れ始め、「円高不況」ということが言われ始めます。

当時の日本は加工貿易国として高度成長を達成したのですが、その「路線」が様々な要因に行き詰まりを起こし始めます。そういう状況下での日中国交回復だったのですが、実は日本経済にとって「渡りに船」と思った人が多かったと思います。

「渡りに船」とはどういうことか? 中国の労働市場と消費市場が日本の目の前に大きな口を開けて迎えてくれたのです千載一隅のチャンスとばかりに、日本の企業は猫も杓子も中国に進出します。中国で作れば中国の安い人件費で製品を作り、それをメイド・イン・ジャパンのブランドで海外や中国で売れば、多くの利益を得ることができます。そして、当時の日本は「エコノミックアニマル」ということで、利益を独り占めしている国ということで批判に晒されていたのです。

こういった負の側面が、中国に進出することによって一挙に解決することが出来ると考えたのです政府は日中友好条約を結びます。国交がなかった国と最初に結ぶ条約は、普通は通商条約か基本条約です。友好条約というのは、簡単に言うと、「僕たち親友だよ」という意味です。付き合いが全くなかったどころか、肚の底ではお互い敵視していたのに、一晩たって「親友」と言われても普通は「大丈夫かな、何か裏があるのでは」と思うものです。そういう条約を日本は結んだのです。いかに当時の日本政府が中国との国交回復を喜んでいたのかが分かります。日本人もお人好しだと思うのですが、パンダをもらって喜んで一挙に日中友好ムードが高まります。マスコミも含めて、日本国中一挙に日中友好ムードで包まれたのです。


(「朝日新聞デジタル」)

 その50年後、アメリカと日本、そして台湾を恫喝する国になった

アメリカ、そして日本から多くの企業が中国に進出しました。中国は当時は社会主義経済を標榜していたのですが、鄧小平による開放政策によって外資を中国に呼び込むことに成功します。豊富な労働力と広大な消費市場、中国は最初の頃は国をあげて、外国から進出してくる企業に用地の提供や雇用など、様々な便宜を図ったのです。中国が世界の工場になった瞬間だったのです。

日本の場合はそれだけに止まらないで、中国にODA(政府開発援助)という名目で多くの資金をつぎ込みます。ちなみに、ODA総額は1979年から2019年までの40年間で3兆6千億円にものぼります。中国が日本をGDPの額で追い越してからも日本はODAによる援助を続けます。何故、こういう資金を中国に与えたのか。簡単に言うと、中国に多くの資金が流れ、国が豊かになれば「普通の国」になってくれるだろうという目論見があったからです。

その計算が当たったかどうかの答えは言う必要がないでしょう。見通しが甘いということと、ODAをストップしたのが3年前です。これは遅すぎです。ちょうど今年は終戦から77年ということで特集番組が組まれていますが、ミッドウェー海戦を分岐点にして連戦連敗となります。そこで戦争を止めれば、各都市への大空襲も原爆投下もなかったのです。

「人間魚雷」、「神風特攻隊」、「本土決戦」という馬鹿げたことしか思いつかなかったのは何故なのか。これは日本人の弱点なのです。一つの方向に皆で進んでしまって、誰もそれを止める者がいなくなってしまうのです。農耕民族の弱点でもあります。その弱点が再び頭をもたげようとしています。対策を考える時代です。

(「産経ニュース」)

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