「今日は憲法記念日なので、憲法の話をしましょうか」
「毎日新聞の世論調査が昨日発表されましたが、改憲賛成48%、反対31%でしたね」
「韓国のマスコミが日本で改憲派がここに来て増えていると少し驚いています」
「自分たちも多少は原因を作っていると思いますけどね……」
「あと、男女別に数字を集計しているのですが、男性の6割が改憲賛成ですが、女性は3割だそうです」
「女性をターゲットにして、9条をアピールしてきた効果だと思います」
「生命(いのち)を産む女性は、平和を生み育てます、ということで私の若い頃はよく平和集会をしていましたよね」
「いつ頃の話ですか?」
「1970年代、80年代ですかね。中国も半島の国もおとなしかったので、この憲法を守れば平和が守られるかなと本気で思ったこともありましたね」
「まだ、そういう夢を見続けている人たちもいますけど……」
「どんな時代でも、そういう方はいるもの。どんなに良い授業をしても寝る生徒がいるのと同じです」
「大事なことは起きている生徒が頑張って問題を解くことですかね」
「最近、何か覚醒していませんか。言うことが前とは違っていますね」
「シャブをやっている訳ではありません」
「覚醒剤ではなく、覚醒と言ったのです(笑)」
「分かっていたのですが、少し絡んでみたかっただけです(笑)」
「ここからが本論です」
2000年間で3つの憲法を定めた国
日本国憲法記念日ではなく、憲法記念日なので、今まで日本で制定された憲法、つまり十七条憲法、大日本帝国憲法、そして日本国憲法について思いを巡らす日ではないかと思っています。これらは時代背景や制定の事情が違うということで、別個にそれぞれの憲法が解釈されてきました。ただ、よく考えてみれば、おかしなことだと思っています。
というのは、日本は一つの王朝のもとで2000有余年の歴史を刻んできた国だからです。その中で制定した憲法が全部で3つある。それらは、当然一つの理念の元に統一的に解釈されてしかるべきではないかと思います。もっとも、そういうことを言う人は多分今まで、誰もいなかったかもしれません。ただそれは、ワンパターンの思考に馴らされていただけなのかもしれません。
(「You Tube」)
大日本帝国憲法と日本国憲法
現在の日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続き条項を使って制定されています。実際に、衆議院と貴族院で審議成立をしています。ということは、2つの憲法は「連続線」で解釈される必要があると思っています。
しかし、戦後の日本の憲法学会は、2つの憲法を対照的に捉えようとしてきました。そのため、日本国憲法は民定憲法の素晴らしい平和憲法と大絶賛、大日本帝国憲法は欽定憲法でありドイツのプロシア憲法の単なる焼き写しという捉え方でした――「明治憲法の指導原理は、19世紀のドイツ諸国の憲法を特色づけた『立憲君主制』の原理に、強度の神権主義を加味したものだったといえる」(宮澤俊儀『憲法』有斐閣全書、1986年/27ページ)
大日本帝国憲法の制定に深く関与した金子堅太郎は、「独逸(ドイツ)の憲法は我が日本国憲法を起草するに当たり或る条項に就いては採用すべきものが多々あったけれども其の皇帝を以て機関の如く論定する精神に至っては我が日本国憲法に採用することはできなかった」(「帝國憲法の精神」)と、明確に否定しています。つまりドイツ憲法を範としながら、似て非なる憲法を作り出したのです。「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」(4条)「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)とあるので、天皇にすべての権限を集中させたのかと一瞬思うのですが、よく読むと第55条に「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其ノ責ニ任ス」とあります。
当時は総理大臣のほかに内大臣、宮内大臣、枢密院も置きました。つまり、「しらす・うしはく」の考え方がここで使われているのです。「しらす・うしはく」というのは、権威と権限を分離したということです。それが明治憲法の一番の特徴ですが、「天皇の場所は、哲学的な空になって」(司馬遼太郎『明治という国家』)、政治的な一切の権限と責任は内大臣、総理大臣をはじめそれぞれの機関の長にあるとしたのです。要するに「日本の天皇は、皇帝ではなかった」(司馬、同上)と言っています。先入観のない、曇り無き透徹した作家の目は、明治憲法の本質を見事に見抜いていたのです。
欽定とか民定という概念は、それ程重要ではありません。大事なのは、元首は誰なのかということです。元首というのは、国を代表する者です。会社で言えば代表権を持っている者ですが、日本の場合は、古代から現代まで天皇であることに異論を唱える人はいないでしょう。つまり、明治の憲法も今の憲法も本質的なものは何も変わっていないのです。
宮澤俊儀氏(1899~1976)は、東大憲法学、そして憲法学会の重鎮だった方です。日本の学問界や学会には変な忖度がはびこることがありますが、憲法学会もその例に漏れず、かなり強固な忖度主義がはびこっていると思っています。誤解を恐れずに言うならば、伝統文化の社会は忖度主義がはびこっても良いのです。「かたち」を崩さず、後世に伝える必要があるからです。しかし、学問の世界において、忖度主義がはびこって批判精神が無くなれば、新しい考えや発想が出なくなってしまいます。学会は、過去業績があった人の学説を価値あるものとして受け継ぐためだけの組織ということになれば、やがては存在意義をなくすことになります。
「平和主義」というおかしな言葉
どの教科書にも「平和主義」という言葉が載っています。憲法の内容を説明するにあたっては不適格な言葉です。「平和」という言葉は、感覚的で主観的な言葉であり、非常に漠然とした概念です。そのような言葉を、憲法という国の基本法を説明する際に使うのはおかしなことですし、相応しくありません。
実際に、「あなたの家庭は平和ですか」「職場は平和ですか」というように、一般的に使われたりしています。質問する人も厳密な回答を望んでいないと思います。「平和」の反対は戦争、戦争の反対は不戦なので、敢えて使うとすれば不戦主義でしょう。
「平和主義」がどのような経緯で定着したのか調べてみました。先に紹介した宮澤俊儀氏の『憲法』には次のように書かれています――「日本国憲法が採用した基本原理としては、①個人の尊厳、②国民主権、③社会国家、および④平和国家をあげることができる」(68ページ)。
彼の弟子と言われる芦部信喜氏(1923~1999)の『憲法』(岩波書店、2007年)には、「日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本原理とする。これらの原理がとりわけ明確に宣言されているのが憲法前文である」(35ページ)としています。
宮澤俊儀氏は戦前から戦後にかけて、憲法学会の中心的な役割を担った人物です。彼の弟子と言われているのが、佐藤功氏、小嶋和司氏、小林直樹氏、そして先に紹介した芦部信喜氏です。「平和国家」という言葉が「平和主義」として弟子たちに受け継がれ、それが教科書に採用される運びとなったのです。憲法には「平和」はありますが、「平和主義」という言葉はありません。あくまでも解釈上の言葉なのです。
(「アメブロ」)
「平和」は周りの環境に多分に支配される
憲法というのは国の基本法ですので、国の在り方、方針について定めたものです。そこに他律的な要素を盛り込むのは、基本的に間違っています。例えば、あるサッカーチームの練習規則を決める際に、「天気が良い時だけ練習する」とか「気温が5℃を下回った場合は練習をしない」などといった条件をその中に入れません。なぜなら、チームとしてどのような練習をしたいのかを決めることが重要だからです。
国のきまり、憲法も同じです。ところが「平和」というのは、周りの環境に多分に支配されてしまう概念です。ということは、国として周りが攻めてこないようにひたすら「平身低頭外交」を繰り返すことになりますし、実は戦後外交はそうだったのです。その結果、本当に「平和」が実現されたのかということです。
解答は、日本の周りの状況にあります。戦争が起きていないから「平和」だと強弁する人もいますが、それは屁理屈です。夫婦がいがみ合っているような家庭を「平和な家庭」とは言いません。
改めて周辺を見渡せば、台湾海峡、尖閣諸島は「波高し」ですし、北朝鮮は核武装を公言し、中国の拡張政策は世界の多くの国が警戒をし始めるほど激しくなっています。つまり、勝手に「平和」を唱えても周りがそれに対応してくれなければ、目的を達成できない概念なのです。
例えば、日本が仮にアメリカの近くのカリブ海に浮かぶ島であれば、「平和主義」も良いかなと思います。中国、ロシア、韓国、北朝鮮と海を隔てて隣国関係にある日本が、「平和主義」を唱えて極東の地で生きていくのは現実的に無理があります。
憲法の基本書に書かれ、教科書にも書かれた「平和主義」ですが、見直しの時代に入ってきたということです。憲法界の天動説に別れを告げる時期となりました。
(「MFC/Mountain Fes Camp」)
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