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特攻隊出撃から80年 ―— 部下の特攻を止めるのが上層部の役割 / 不戦神話が作られたことが無謀な作戦の原因

「今年の10月は、最初の特攻隊が出撃してから80年の節目を迎えます」

女性

「80年ということは、今年が2024年なので、最初の特攻機が飛び立ったのは1944年になる計算となりますが、合っていますか?」

「そうです。1944年10月です。終戦の10か月前のことです」

女性

「もう、その頃は戦局がほぼ決まっていた頃ですよね」

「そうですね。1942年6月のミッドウェー海戦の敗北が一つの分岐点になりますが、そこから坂道を転がるように敗走を重ねることになります」

女性

「空襲によって都市が相当な被害を受けるのはいつ頃からですか?」

「最初の空襲が1942年4月です。東京、名古屋、神戸などが空襲を受けます。開戦からわずか4カ月しか経っておらず、その時点ですでに制空権を奪われていたのです」

女性

「はっきり言って、その時点で勝負あったということですよね」

「そうですね。ただ、今だからそういう意見が言えるのですが、当時は何とか戦局を打開したいという思いが強かったのでしょう」

女性

「戦局打開の手段として、特攻隊だとか回天が考え出されたということですが、時既に遅しだと思います」

「変な不戦神話を作ったため、それに現実を合わせなければいけないということで、こういった無茶な作戦が生まれたのだと思います」

女性

「国民の命と幸せを守るための戦争だったはずなのに、いつの間にか、その国民を犠牲にして戦うことになったのですね」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「J-CASTニュース」提供です」

 雌雄を決してからの特攻隊、そして回天

零戦に250キロ爆弾を搭載して敵艦に体当たりするという「特攻」の命令が下され、戦闘機とともに貴重な命を散らした多くの若者がいました。1944年10月25日の最初の出撃を皮切りに、特攻隊は陸続として飛び立っていき、特攻による戦死者は2,531人に及びます。

また回天特別攻撃隊が山口県の大津島基地から出撃したのは、特攻隊の出撃から遅れること2週間の1944年11月8日でした。回天は炸薬量1550キロの人間魚雷です。脱出装置が付いていませんので、乗員は敵艦とともにその命を散らすことになります。回天搭乗員の戦死者は106人に及びます。

特攻隊も回天も最後の悪あがきのようなものです。相撲で言えば「死に体」なので、抵抗するだけ無駄ですし、むしろ戦後復興を考えて犠牲をなるべく少なくすることを考えた方が良いのですが、当時の軍隊は死体の山を築くことをしてしまったのです。

(「TBS NEWS DIG」)

 部下の特攻を止めるのが上層部の役割

大勢に影響を与えないような犠牲ならば、本来は上層部が止める必要があるのですが、そういう判断すらも出来ないような状態だったということです。一言で言えば、思考停止であり、組織として機能不全に陥っていたということです。

なぜ、そういう状態になってしまったのでしょうか。陸軍、海軍ともにヒエラルキーによって組織そのものが硬直していたと思われます。組織が硬直すれば、イデオロギーに支配されやすくなります。イデオロギーというのは、密室で通じる論理です。世間一般で通じるものではありません。変な独善が横行するようになります。その時も、そのような類の論理が下士官を支配することになります。第一航空艦隊司令長官・大西中将は日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた(中略)という歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう」と言ったという記録がありますが、完全に思い込みの世界に入ってしまっています。

そもそも「日本民族が将に亡びんとする時」という状況認識が間違っていますし、「身をもってこれを防いだ若者たち」はおらず、防ごうとして防ぎ切れなかったという事実だけが残っていますので、何の歴史も残りません。その前提が違っているため、日本民族の再興云々ということは言えないということです。そもそも、なぜ命を捧げれば「五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興する」のでしょうか。生きて国の繁栄のために尽くす、それを子孫に伝えることが再興にとって重要だと思います。

(「Yahoo!ショッピング-Yahoo! JAPAN」)

 不戦神話が作られたことが無謀な作戦の原因

日清戦争、日露戦争と2つの大国に勝ったということで、無敵神話が生まれます。勝って兜の緒を締めよという言葉があるのに、傲り高ぶりが誤った大陸政策に向かわせ、ついには米英を相手にする無謀な戦争に突入してしまったのです。

天皇を現人神とする無敵神話が作られます。利用されたのが『古事記』の「神武東征」です。1940年に皇紀2600年を祝して瀬戸内海沿いに神武天皇聖蹟顕彰碑が建てられます。現在も19基の碑が遺っていますが、そこに「皇軍を率いて」と噓偽りが書かれています。『古事記』を読めば分かりますが、日向から畿内の入り口まではカムヤマト(神武天皇)と兄イツセノミコトの2人旅ですし、そこから即位した橿原(かしはら)宮まではカムヤマトの1人旅です。

日本の軍隊は皇軍なので負けることがあってはいけない。何が何でも勝つことが求められる。追い詰められ、その挙句の苦しまみれの捨て身戦法が特攻であり、回天だったのでしょう。乗組員たちの心情は雪のように白く純粋だったと思います。それだけに、そういう無謀な作戦を上層部の誰かが本来は止めなくてはならなかったのです

(「京都宮廷文化研究所」)

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