
「最近知ったのですが、戦後すぐの時期から、移民政策を再開していたのですね」

「そうなんですか!? 戦後復興をしなければいけないので、人手が必要だと思いますけど……」

「一番の大きな理由は、食料不足です」

「成る程、その理屈は分からなくもないですが、食料を生産する側にまわってもらえば良いのではと思いますけど……」

「それが普通の人の発想だと思いますが、当時の日本を覆っていたのが人口過剰論です」

「戦争で多くの人が死んだのに、どうして人口過剰論が出てくるのですか?」

「一言で言えば、思い込みです」

「ちなみに、敗戦時の人口はどの位ですか? 1億は完全に切っていますよね」

「ちょっと待ってください。今、調べますからね。……7200万人です。」

「全然少ないですよね」

「要するに、当時の為政者たちが、ベビーブームと食料難という出来事を頭の中で観念的に結び付けて出した解決策が海外への移民政策だったのです」

「それは違うと思いますけど……」

「実感が伴っていないのに、頭の中で数式を解くように政策を考えるので、誤ってしまうのです」

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「毎日新聞」提供です」
戦後の食料難と救援物資
1945年の敗戦後、日本は深刻な食料難に直面しました。本土空襲によって日本全国の建物や家財道具の4分の1が失われ、多くの人々が住居も財産も奪われた中、飢えとの闘いが始まりました。ある町では月に数十人が餓死するという惨状で、食料の確保はまさに国家緊急の課題だったのです。
このような状況の中、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は衛生学的な見地から、日本人に必要な最低カロリーを1日あたり1,800キロカロリーと算出しました。しかし、当時の日本にはその最低ラインを満たす食料すら十分になく、人口を維持するには年間350万トンもの輸入が必要とされていたのです。
そうした危機を救うために、大きな役割を果たしたのが、米国にあるアジア救済機関「ララ(LARA)」でした。1946年11月に初めて送られた援助物資は、ミルクや米粉、バター、ジャム、缶詰、さらには衣服など多岐にわたり、その後1952年3月までの間に1万6千トンが届けられました。そのうち3/4は食糧であり、約1,400万人、当時の日本人口の6人に1人がこのララ物資の恩恵を受けたとされています。この支援の送り主は、アメリカ在住の日系人たちでした。彼らの温かい思いが、戦後の日本を支える重要な力となったのです。
(「Goo ブログ」)
南米中心の移民政策が行われる
戦後日本では、敗戦による荒廃、引揚者の増加、復員兵の帰還などにより、都市も農村も過剰人口の問題を抱えていました。国土は焼け野原となり、職も住まいも足りないという深刻な状況の中で、日本政府は過剰人口対策として再び海外移民政策に舵を切ることになります。
1948年には外務省に「海外移住課」が設置され、1952年にはJICA(国際協力機構)の前身である「海外移住事業団」が発足しました。こうした組織を通じて、1953年以降、ブラジル、ペルー、ボリビア、パラグアイなどの南米各国への移住が奨励されました。
その中でも特に問題となったのが、ドミニカ共和国への移民です。1956年、日本とドミニカ政府の間で移民協定が締結され、1956年から1961年の間に約1,300人の日本人が移住しました。しかし、彼らを待っていたのは理想とかけ離れた現実でした。現地は未開の荒地であり、沼地が多く、電気や水道といった基本インフラも整っていませんでした。医療体制も乏しく、マラリアや栄養失調などによって死者が続出しました。夢を抱いて移住した人々にとって、ドミニカでの生活はまさに過酷なサバイバルだったのです。
(「読売新聞オンライン」)
国家賠償請求訴訟を起こされる
ドミニカ共和国への移民が「失敗政策」であったことは、やがて移住者自身の手によって明らかにされていきました。1970年代になると、移住者たちは「政府による虚偽の宣伝で移住させられた」として、補償や帰国支援を求める運動を始めます。
1981年、移住者の一部がついに日本政府を相手に国家賠償請求訴訟を提起しました。長い法廷闘争の末、2006年に政府は元移住者1人あたり200万円の和解金を支払うことで決着しました。これは、国としての責任をようやく認めた形となりました。
しかしながら、この「ドミニカ移民の悲劇」について、日本国内では長く報道が控えられ、世間一般に広く知られることはありませんでした。一部では、報道規制が存在していたのではないかという声もあります。根本的な問題は、現地の実情を精査せずに移住政策を進めた政府の姿勢にあります。さらに言えば、そもそも戦後の復興期に必要な労働力や人材を、外に送り出すべきではなかったのです。政策判断そのものが誤っていたということです。移民政策は、日本の戦後史における教訓として、忘れてはならない課題なのです。
(「You Tube」/KRY山口放送ニュース)
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