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『僕の見た「大日本帝国」』(その4) 満州篇 ―— 旧満州に遺る、統治時代の日本の建物 / 勝ち目のない戦争に突入する

  • 2024年8月13日
  • 2024年8月13日
  • 歴史
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女性

「今回は満州ですか? 歴史の授業でも習った覚えがありません」

「北朝鮮までたどり着いたので、満州まで足を延ばしましょう。満州は現在は中国領ですが、それは知っていますよね?」

女性

「そこは何とか(笑)。ただ、満州に対しては、あんまり良いイメージを持っていません」

「私も実はそうです。私の伯父が満州のノモンハン事件で亡くなっています。そんなこともあり、彼の旅行記を興味を持って読みました」

女性

「そうなんですね」

「ノモンハンというのは、モンゴルとの国境付近にあることを改めて知りました」

女性

「そんなところまで出掛けて戦争したんですね」

「ノモンハン事件というネーミングがついているので、小さな事件と思うかもしれませんが、死者数が1万8千人で第23師団は壊滅しています」

女性

「かなり悲惨な結果ですね」

「中央が不拡大方針を出しているのに、関東軍が戦闘を継続してしまいました。何でそんな戦い方をしたのかと今でも疑問です」

女性

「何年頃のことですか?」

「1939年5月のことです。その約2年後に太平洋戦争が始まります」

女性

「それだけの犠牲があっても、さらに戦争を続けたのですね」

「止める人がいなくなったからです。ここからが本論です ↓ 表紙写真は「withnews」提供です」

 

 日清戦争は朝鮮半島の覇権をめぐって清国と戦った戦争

日清戦争は朝鮮半島を舞台にして、その覇権をめぐって清国と戦った戦争です。日本は至るところで清国の軍隊を撃破して、ついにはリャオトン半島から清国軍を駆逐してしまいます。リャオトン半島は黄海に突き出たように存在し、半島や中国大陸を睨む上での要衝地です。はっきり言って、戦い過ぎです。戦略をきちんと持っていなかったと思われます。

日清戦争は「朝鮮の独立と内政改革」のために行うと世界に向けて説明していました。リャオトン半島は清国の領土ですが、そこまで戦いを広げ、占領してしまいます。それが三国干渉を呼び起こします。ロシアがドイツ、フランスに呼びかけて日本に対してリャオトン半島の返還を求めるという圧力をかけたのです

その圧力をはねのけることは出来ないと判断した日本は、結局、半島を返還してしまいます。そして、これ以降ロシアが満州、朝鮮に進出してくるようになるのです。要するに、リャオトン半島まで戦いを進めたことが仇(あだ)となったのです。そして、そのリャオトン半島の大連から西牟田氏の満州の旅が始まるのです

(「ガウスの歴史を巡るブログ」)

 旧満州に遺る、統治時代の日本の建物

大連と旅順は日露戦争後、約40年間日本が統治をすることになります。そんなこともあり、中心部の中山広場を囲むように、かつて大日本帝国が建てた威風堂々とした建物がまだ現役として活躍していました。横浜正金銀行は中国銀行、東洋拓殖大連ビルは交通銀行、大連市役所は中国工商銀行、大連民生署は対外貿易公司として。

中山通りのロータリーを囲む道路は三車線と広く、そこから放射線の伸びている道は全部で10もあるとのこと。ロシアと日本が威信をかけて作り上げた都市計画だったのです。こういう話を聞くと、植民地になるのも、悪い話ではないと思えてきます。

台湾や朝鮮半島、そして満州で行った日本のインフラ整備は一体何だったのかと思わざるを得ません。それだけの資金と労力を国内整備に振り向けていれば、今より更に発展出来た可能性が高いと思います。明治になって植民地支配を嫌って海外に目を向けたことにより、何百万という人が不幸な目に遭い、結局近隣諸国から敵視されるようになり、何の得にもなりませんでした。最初の一歩の踏み出す方向がいかに大事なのかということなのでしょうか。

(「ライブドアブログ」/大連の街並み)

 勝ち目のない戦争に突入する

ノモンハン村は国境近くの辺鄙な村でした。著者が訪ねた時の村は、およそ100世帯、約500人が住む寒村でした。そんな所で1939年に日本とソ連が武力衝突をしたのです。「事件」と日本では矮小化していますが、中国ではノモンハン戦争と言っています。実際に、飛行機や戦車も戦闘に加わっています。だから死者が1万8千人も出たのです。

なぜ、そんなに大きな犠牲が出たのか日本兵の武器は三八式歩兵銃と火炎瓶、地雷、爆薬くらいしかありませんでした。対するソ連側は戦車、飛行機、重砲というように近代兵器です。そこに突撃を繰り返す、白兵戦で臨んだと思われます。命がいくらあっても足りません。死体の山を築いたのです。

ノモンハンについて事件とネーミングする位なので、そこから何か学ぶという姿勢は皆無だったと思われます。そしてその頃を境にして軍部は暴走をし始めます。勝ち目のない戦争に突入して、最後は原爆を落とされてギブアップ。ただ、その後もシベリア抑留、残留孤児というように不幸は続くことになるのです。

(「Gooブログ」)

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