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【三内丸山遺跡】先住民族の問題は日本にはない / 縄文時代の交易ルートを調べて分かること

  • 2020年6月15日
  • 2020年6月16日
  • 歴史
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「青森県の三内丸山遺跡を知っていますか?」

女性

「ええ、一応、有名ですから。ただ、まだ行ったこともないし、すごい遺跡なんだという位しか分かっていません」

「縄文時代の半ば頃の遺跡ですが、発掘して様々なことが分かったのです。従来の縄文観を書き換えるような発見もあったのです」

女性

「例えば、どんなことですか?」

「その地で、約1500年間継続して共同生活をしていたことが分かったのです」

女性

「それはすごいですね。かなりの長期間なので、それに耐えうるようなルールなり、システムがあったということですよね。遺跡の規模はどの位なのですか?」

「三内丸山遺跡の規模は約35ヘクタール、東京ドーム7個分です。100メートル四方が1haですので、600メートル四方の大きさ位と理解すれば良いと思います」

女性

「それはおよそ何人規模の集落だったのですか?」

「当然変動はありますが、500人位ではなかったかと言われています」

女性

「その大きさというのは、当時の基準で言うと、標準的なのですか?」

「当時としては、大きい集落だと思います。多分、この周辺の中心的な役割を果たしたのではないかと言われています。そして、この集落の中心に巨大な建物があり、周辺のムラからも見ることができたのではないかと言われています」

女性

「何かロマンを感じますね」

「あと、かなり高度な建築技術をもっていたこと、計画的な街づくりが行われていたことが分かっています」

女性

「逆に、発掘していろんなことが分かるのだなあと、驚いています」

「そうですね、今はDNA鑑定だとか、様々な科学的手法を使って分析できますからね。彼らの寿命は30~30数年であったことも分かっています」

女性

「あら、随分短いのですね」

「そうですね、現代だと、さあこれからという年齢ですからね。そういうこともあり、死を間近に感じ、それが宗教心を育てたのではないかと思っています」

女性

「成る程、それは誰かの説ですか?」

「いえ、私が思っているだけです。いろんなデータを基にして類推し、仮設を立てることが大事なのです」

女性

「私は仮設住宅を建てることにします」

「なんのこっちや(ここからが本論です)↓」



 三内丸山遺跡の発掘から分かったこと

縄文時代のその膨大な時間の長さを認識していただくために、日本の考古学が設定している年代区分を紹介します。高校の日本史教科書にも示されているものです。

【縄文時代】

草創期 約13000年~約10000年前    早 期 約10000年前~約6000年前

前 期 約6000年前~約5000年前    中 期 前5000年前~約4000年前

後 期 約4000年前~約3000年前    晩 期 約3000年前~約2300年前

三内丸山遺跡の存在は江戸時代から知られていましたが、本格的な発掘調査は1970年代に入ってからです。そして、かなり大規模な遺跡らしいということで、大規模発掘調査が1992(平成4)年から始まります。3年目の発掘調査にあたった作業員が最大580人だったとのことです。いかに大規模だったのか、分かるというものです。

直径1メートルのクリの巨大木柱が発見されたのが、1994年です。全国にこのニュースが流れ、一種の三内丸山遺跡フィーバーが起こりました。その翌年から公開となり、私も家族と一緒に現地に行った記憶があります。

定住をするためには食料をどうしたのかという疑問が当然湧きます。周りに豊富に落葉広葉樹林があり、クリ、トチ、ナラ、クルミといった木の実を食料としていたと思われます。木の実は固いのですが、土器がありますので、煮炊き用にして使って食べたのだと思われます。

そして、「集落遺跡には、同じ場所にこだわった建て替えが見受けられます。系統意識をもち始めていることが示されています」(岡田康博『縄文文化を掘る』NHKライブラリー.2005年)。つまり、財産権、相続権という私権の観念があったということですし、家族という感覚もあったということです。


高さ3メートル、長さ80メートルに及ぶ盛り土と呼ばれる人工丘が見つかっていて、そこに大量の土器、土偶があったことから、祭祀的な行事が行われていたのであろうし、宗教心もすでにあったと思われます

「盛り土によって隔てられた区域には人々の信仰を集めた巨大な建物がそびえ、その手前には集会場あるいは儀礼の場と考えられる大型住居が配置されています。さらにその奥には首長の一族の居住区があったのだと思います」(岡田康博『縄文文化を掘る』NHKライブラリー.2005年/117ページ)

巨大な柱に支えられた建物は、色は赤と黒でけばけばしく彩られ、高くそびえ立っていたので、周辺の村や海を一望できたことでしょう。この建物は、三内丸山を中心とした地域の部族の結束の象徴として立っていたに違いありません」(同前)

 交流・交易面から縄文時代の日本を探る

『海を渡った縄文人』という書があります。この書は縄文時代の交流・交易についてまとめた最初の本です。そこには、当時の縄文人たちが潮流や天候を読み切った上で、丸木舟を駆使して荒海に繰り出し、様々な地方と交易をしていたことが分かります。

各地の遺跡から発掘される貝や海産物、ヒスイや黒曜石といったものの分布を調べていくうちに、「縄文文化は、たんなる食糧採取経済の段階にとどまっているのではなく、ある程度の食料生産を行っていたのではないか、そして、それぞれの集団が孤立して存在していたのではなく、相互に交流・交易をさかんに行い、その間をつなぐ太い「情報」のネットワークのようなものがあったのではないか、というものであり、従来の縄文文化論とは、質的に大きく異なるものである」(橋口尚武『海を渡った縄文人』小学館.1999年)ということが分かってきたのです。

例えば、北海道産の黒曜石が下北半島や八戸などで産出されていたり、下北半島の遺跡から宮城県産の黒曜石が産出されたり、というように産地分析を進めていきます。そういう中で「縄文早期前半頃から、より南の地域との交流がもたれ、早期末には、北海道南部と下北半島・八戸地方間において交流がさかんに行われていたことがわかる」(橋口尚武『海を渡った縄文人』小学館.1999年/105ページ)ようになったのです。


とにかく、北は樺太、千島、北海道から南は沖縄を含む南西諸島、さらには朝鮮半島まで、多彩な交易ルートがあることが分かってきたのです。弥生時代になって稲作農業が急速に広がりますが、縄文時代に作られたルートにのって伝わったことが容易に想像できます

 日本には先住民族の問題は存在しない

縄文時代をさらに詳しく調べることにより、昨日ブログで話題にした「先住民族」の問題はおのずと解決していくと思います。

縄文の交易ルートを見る限り、日本列島は北から南まで繋がっており、縄文人たちが先住民族であることがわかります。「先住民族」の問題は、それ以上でもないし、それ以下でもありません。学問的な書籍をあたった限りにおいては、日本では、そういった民族問題はないということです。

そして、縄文時代は狩猟採集文化の時代ですが、共同体が作られ、ルールが作られ、食料の備蓄も行われ、巨大な建物も建てられていますので、簡単な統治の組織があったのでしょう。ただ、それは支配のための機構ではなく、人間の生活の知恵が生んだ一つの文化なのです

勝手に頭の中で観念的に原始共産制を理想の平等社会とみなす考え方があります。しかし、何を平等と考えると難しい問題がいろいろ出てきます。マンガの世界ならともかく、現実の世界ではそのような体制は無理なのではないかと、縄文時代の人々の暮らしを見る中で思いました。

統治の組織は支配、被支配の組織であり、不平等がそこから発生したと、一面的な見方をするのではなく、共同体を結びつけている力のようなものを彼らは彼らの生活の中から見出したのだと思います。ちょうど、町内会の会長やクラスの世話役を決める時のように、自然にリーダーを決めていた、そんな社会だったと思います。

読んで頂きありがとうございました。

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