「前回の続きで行きましょうか」
「明治憲法ですよね」
「憲法学者の樋口陽一東大名誉教授が「明治憲法をだめと言い続けて反省している。当時の基準で見れば立派な憲法だった」と言っています」
「私の記憶では、明治憲法は常に日本国憲法と比較されて教えられた気がします」
「時代状況が違いますので、比較して論じることではないと思いますけどね」
「そんなことで、今日は「天皇主権」のテーマでお願いします」
「そうですね。まず、「天皇主権」という言葉を帝国憲法は使っていません」
「使っていないのに、どうして教科書にはその言葉が載っているのですか?」
「現在の日本国憲法が「国民主権」を明記していますので、帝国憲法はどうなのかという発想になるのだと思います」
「基本的なことを質問するようですが、主権の意味は何ですか?」
「一般的には、最終的に国の重要事項を決定できる権限ということで説明されています」
「民選議会があるか、ないかということでしょうか?」
「それが大きいと思います」
「戦前は1925年に男子普通選挙制度が導入され、部分的に国民主権が達成されたと思いますけど」
「国民主権というのは「0-100(ゼロ百)」なので、「部分的に国民主権」という考え方はないと思います」
「ここからが本論です ↓」
天皇主権論は憲法学会の主流
主権という言葉自体が、厳密な意味を有していません。もともと、西洋近代法が編み出した用語ですが、要するに、国と国民を対立関係として捉えた上での言葉です。そういう意味で、イデオロギー色が強い言葉です。
対立する意見が出れば、どちらかの意見に纏めなければいけません。国の考えに従うというのが国家主権であり、最終的に国民の判断を仰ぐというのが国民主権です。ただ、主権という言葉は、法的に厳密な言葉ではありません。イデオロギー色が多分に入った言葉です。
1890年、帝国議会が開かれます。当時は貴族院と衆議院です。貴族院議員は公選ではありませんでした。ただ、貴族院議員も国民であることには変わりがありません。公選議員と貴族院議員によって重要な議題について決められていたと思われます。天皇はそれまでの慣例に則って、シラス者として振舞い、現実の政治に口出すこととはありせんでした。であれば、国民主権と謳っても良いと思われます。
〔「note」〕
日本の国情に合わない言葉――主権
主権の「主」という漢字の意味は、主導権の「主」です。日本は家族主義的国家の考えなので、上の方なのか、下の方なのか、どちらが「主」なのかをいちいち明記する必要がないという考えです。つまり、同じ屋根の下で生活を共にしている家族なので、敢えて「主」を言う必要もないだろうということです。
家族の「主」は、概ね年長者です。最終的に年長者である家族の「主」が、その責任において決めることになります。それはある意味、日本の常識でしたので、主権という概念を持ち込む必要がなかったのではないかと思っています。
〔「WeXpats」〕
概念規定より、実態を重視する必要あり
主権というのは、一つの概念です。概念を持ち込むことによって、その基準で法的動向を見ることになります。ただ、それでは、余り意味がないと思っています。状況によっては、先入観でその社会を見ることになるからです。
経済の世界は、刻々変化するデータに基づいて様々なことについて判断しようとしています。政治の世界も同じ発想で対処する時代になったかもしれません。
それぞれの地域や家族の中で代表者が選出され、彼らが自分のポジションの中で主導権を握ることができる社会。それが「国民主権」の実態だと思います。それが保障されていれば、「国民主権」の社会だと思います。憲法に明記されているとか、されていないとかということではないと思います。
〔「www.chirashiya.com」〕
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