
「分かっているようで分かっていない「保守」について考えていきたいと思います」

「保守本流という言葉をたまに耳にしますが、それ自体に解釈が分かれてしまっている気がします」

「おっしゃる通りだと思います。自民党がよく保守本流という言葉を使いますが、彼らは具体的には、明治維新以降の流れを保守本流だと捉えています」

「この前の話だと、もっとそれ以前からある流れを大切にするのが保守というお話だったと思います」

「日本の伝統と文化を生み出した律令の千百年の時代が保守の原点です」

「明治以降でも、律令の時代でも同じ日本の歴史なので、どちらの考えでも特に問題はないような気がしますが……」

「明治維新は、それまでの日本を否定することからスタートしています」

「歴史が連続しているのではなく、そこで途切れてしまったという捉え方ですね。ただ、新生日本のためには、改めるべきは改めるという考え方はおかしくないと思います」

「形式論理ではそういうふうになると思います。具体的に検証したいと思います。今日は、鎖国、不平等条約について検証したいと思います」

「ここからが本論です ↓写真提供は「You Tube」提供です」
近代化論と不平等条約の再検討
明治政府以来の歴史を肯定的に捉える立場は、歴史学では「近代化論」と呼ばれています。現在の政府、そして自民党は基本的にこの近代化論に依拠して政治判断を行っており、その点では日本保守党を含むすべての主要政党がこの立場に立っていると考えられます。無能な幕府を倒し、明治政府が日本を近代化へと導いたという物語は、長らく日本近代史の中心的な通説となってきました。そのため、明治100年や明治150年といった節目の記念事業が政府主導で行われたのです。
1854年に日米和親条約を締結し、1858年にはアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと通商条約を結びました。これらは「安政の五カ国条約」と総称されますが、これを「不平等条約」と呼ぶのは、明治政府のプロパガンダ的な側面があると考えられます。たとえば、治外法権(領事裁判権)は、当時の国際常識であり、相手国の国民が自国の法律で裁かれるという仕組みは珍しいものではありませんでした。
また、関税自主権がなかったという点についても、当時の日本に「関税自主権」という明確な概念が存在していたとは言えません。そもそも関税は、国際関係において協定によって定められるのが普通であり、一方的な関税引き上げは外交上の摩擦を生むことは、最近のトランプ関税の騒動を見れば明らかでしょう。従って、これらの条約を一方的に「不平等」と断ずるのは適切ではありません。
(「X」)
植民地化の危機は実際にはなかった
明治政府は、日本が欧米列強によって植民地にされる恐れがあったという主張を繰り返しました。こうした主張は現在でも一部の歴史学者に影響を与えています。例えば、「明治維新の革新性についてはさまざまな捉え方が可能だろう。……植民地化の脅威をはねのけて国家としての独立を維持した独立革命ないし民族革命と見なす向きもあれば、……」と書いています(瀧井一博「立憲革命としての明治維新」『日本近代史講義』中公新書、2019所収)
しかし、具体的な歴史的事実を見れば、そのような危機はすでに回避されていたとも言えます。たとえば、1863年の薩英戦争は、生麦事件を発端とした賠償交渉の決裂により起きた局地的な戦闘です。最新兵器を有するイギリスに対して薩摩藩は苦戦しつつも、3日間の戦闘後に賠償を幕府が負担することで終結しました。イギリスはその後、長州藩とも戦っていますが(四国艦隊下関砲撃事件)、その際の経験から、日本を軍事的に制圧・統治するのは困難であるという判断に至ったとされています。
「安政の五カ国条約」が締結された段階で、列強は日本との貿易関係を重視しており、植民地化の動きは見られませんでした。にもかかわらず、藩閥政府は「外敵の脅威」を前面に押し出し、徴兵制を導入して「富国強兵」政策を進めました。さらに、そうした体制はやがて朝鮮半島への侵略へとつながっていきます。
(「You Tube」)
「鎖国」という誤解と幕府の近代化努力
現在、歴史学の分野では「鎖国」という言葉はもはや使われなくなりつつあります。なぜなら、江戸時代の日本は決して完全に国を閉ざしていたわけではなく、中国やオランダ、朝鮮などとの交易や交流が続いていたからです。西洋の文物も、長崎・出島を通じて継続的に流入していました。よって、「鎖国から開国、そして文明開化へ」という教科書的な図式は、事実とは異なる「官製の維新史」と言わざるを得ません。
幕府もまた、近代化の必要性を自覚していました。1853年のペリー来航以降、幕府は西洋の技術や学問の導入を急務と考え、若い人材をオランダへと派遣しました。彼らは軍艦建造や医学、海運に関する知識を学びました。留学生の中には榎本武揚や西周といった、後に日本の近代化に大きな影響を与えた人物も含まれています。
幕府は海外の知識を積極的に吸収し、独自の「近代化路線」を模索していたのです。このような事実は、「無能な幕府」という一面的な評価を見直すきっかけとなるでしょう。
(「ameblo.jp」)
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