「日本最初の本格的な哲学書と言われているのが『善の研究』だということは知っていますよよね」
「確か、西田幾多郎ですよね」
「凄いですね。よく、ご存じで……」
「高校の倫理で勉強していますし、一応、文学部なので哲学概論の講義で話を聞きましたので……」
「その西田幾多郎ですが、今年で生誕150年を迎えました。故郷の石川県かほく市にある「西田幾多郎記念哲学館」では、記念事業に取り組んでいるそうです」
「石川県かほく市ですか……。大体、どの辺りですか」
「金沢から七尾線に乗り換えて宇野気駅で降ります。駅前は店らしい店が何もないようなローカルな駅です。そこから歩くと距離がありますので、私は2年前に行ったときはタクシーを使いました」
「わざわざ、行かれたのですね」
「1年に1回、夏に研修大会をするんですよ。それで行きました。記念館はコンクリートの打ちっぱなしのかなり立派な建物です。近くに西田幾多郎の墓もありますし、「哲学の道」や出身の小学校もあります」
「記念館ですが、ホームページに建築家の安藤忠雄さんが設計をしたとあります」
「なるほど、確かに、モダンで結構ぜい沢な造りだったと記憶しています。そこのホールを使って研修大会が開催されました」
「何人くらいの規模ですか?」
「今年はコロナのことがあって中止になってしまったのですが、例年200人位全国から集まるようです」
「そんなに、いらっしゃるんですか」
「中には熱狂的な西田フアンがいて、毎年参加される人もいます。是非、参加を検討してみて下さい」
「ここからが本論です ↓」
『善の研究』の生命力は一体どこにあるのか
『善の研究』(岩波文庫. 1950年)という西田幾多郎の本があります。この本を買った人の9割以上が途中で読むのを諦めてしまうと言われる位に難解な書なのですが、今、私の手元にある彼の書の一番後ろのページに初版発行が1950年。その後2000年に86刷、2007年には95刷とあります。初版から70年ですが、現在もなお売れ続けているということが分かります。
多くの人に読み継がれ、現在も売れ続けているということは、本に生命力があるからです。その生命力が一体どこにあるのか、それを探ってみたいと思います。
生命力の秘密はスピリチュアリズムにあり
西田が追い求めたのは存在の根源です。彼はそれを「主客未分の状態」という言葉で表現しています。その原点こそが、真実在であるとしたのです。それらの言葉を理解しようとする時に、唯物論的な論理の世界で理解しようとしても無理です。たぶん、何を言っているか、理解できないと思います。
理解するためには、スピリチュアリズムの立場に立つことが必要だと思っています。
スピリチュアリズムという言葉ですが、国際スピリチュアリズム協会(本部/イギリス)が2000年に発足したこともあり、ポピュラーな言葉として定着してきています。スピリチュアリズムの意味は、多次元世界を認め、精神世界と現実世界を統合する立場で物事を見るという考え方です。哲学的な言葉で説明すると、観念論と唯物論を統合し、両者の視座から物事を見るということです。
そのような考え方が何故生まれたのかということですが、従来、唯物論と観念論の間には、どちらが先か、どちらが真の存在かという「ニワトリ、卵論争」があり、「思想の壁」がそびえ立っていたのです。ところが、この壁が20世紀以降の量子物理学により穴が空き始め、それがスピリチュアリズムの思想を生むきっかけとなったのです。科学の発展が、思想に影響を与えたということです。
つまり、量子物理学の発達によりミクロの世界の解明がここ100年位で急速に進み、我々が存在していると思っていたモノは、想像を絶する程の小さな粒子の集まりであり、それらが振動していることも分かってきたのです。さらに、電子の中には「意志」のようなものをもっていると主張する研究者も現われるなど、従来のモノの見方を変更せざるを得ないような状況も生まれてきました。それに伴って、モノと観念との境界が非常にあいまいになり、その境界がやがてはなくなることが予想される状況にまでなってきました。
現在は、少なくとも人間の五感が捉えている世界は、真実の姿を捉えてはいないということが分かってきたのです。例えば、部屋の中には、机、メガネ、はさみ等が違った姿を見せていますが、それらはすべて原子でできていることが分かっています。机、メガネ、はさみは、視覚で捉えた姿ですが、それぞれには原子の目線で捉えたもう一つの姿があります。どちらが真の姿なのか。両方とも、真の姿なのです。
西田が言う「主客未分の状態」は、スピリチュアリズムの立場に立つことにより理解できる
スピリチュアリズムとは、観念論でも唯物論でもなく、「両目」でモノを見るという立場です。かつてはモノはモノ、観念・意識が物質世界に影響を与えることはないということで、お互い唯物論と観念論というテリトリーを形成して独自の途(みち)を歩んできました。
モノと意識・観念は、ミクロの世界においては両者の間に根本的な違いはなく、どちらも素粒子として説明できるのです。精神伝達作用も電子のやりとりで説明できます。であるならば、一つの視座から両面を立体的に見ることができるのではないか、ということです。
このように、すべてのモノは2面性があることが分かってきた以上、ミクロとマクロ、陰と陽、プラスとマイナスなどの両視座から立体的に物事を見て、判断をする必要があります。その根源を西田は「主客未分の状態」と言い、それはスピリチュアリズムの考えに通じるものなのです。
読んでいただき、ありがとうございました。
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