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スピリチュアリズムと西田哲学(2) / 混迷の時代こそ「原点」に戻ることが必要

  • 2020年11月8日
  • 2020年11月9日
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女性

「スピリチュアリズムというのは、「あの世」のことを語る考え方なのですか?」

「「そうだ」とも言えるし、「そうではない」とも言えます。命題の立て方自体が違います」

女性

「どういうふうに考えれば良いでしょうか?」

「「この世」「あの世」という言葉を使うならば、「この世」と「あの世」が重なり合っていると考えます。そして、形式的に「この世」「あの世」というふうに分けることは出来ないと思っています。それを西田は『主客未分』と表現したのだと思っています」

女性

「主観というのは私という意識ですよね、客観というのは周りの自然ということだと思います。それが未分というのがピンとこないのですが……」

「視覚中心で判断するので、そうなるのです。あなたが目で見ている世界は、人間が捉えた形ある映像の世界です。彼の言葉を紹介します。『普通には主観客観を別々に独立しうる実在であるかのように思い、この二者の作用に由りて意識現象を生ずるように考えている。従って精神と物体との両実在があると考えているが、これは凡て誤である』(『善の研究』75ページ)」

女性

「言い回しが難しいのですが、私の精神と物体は別々に存在していないと言っているのですね」

「そうですね。ただ、主観、客観という言葉はもともと西洋哲学の言葉であり、発想なのです」

女性

「分かります。デカルトの「われ思うゆえに我あり」ですよね」

「そういうふうに、主観と客観を分けてしまう、その発想は自分と国家社会を分けてしまうという考えに連なっています」

女性

「別の存在とした上で、どのように関わるかという発想ですよね」

「ただ、それだと自分以外は全部「他人事」になります。それは日本人の発想ではないのです。すべてを自分に関連付けて考える発想、自然と我、社会と我、国と我、すべて一体なので自然や社会の発展を自分のこととして考えるのが日本人的です」

女性

「和の精神ですね」

「そういう意識が薄くなっていますが、今年が生誕150年です。西田哲学を学んで、日本人の考え方を取り戻そうという、そんな神からのメッセージが込められているのかなと思っています」

女性

「西田は神の存在を認めているのですか?」

「『善の研究』を読むと、完全に認めていますね。彼のその辺りの論理も味わってみて下さい」

女性

「ここからが本論です ↓」


 日本と西洋、自然の捉え方が違うのは、その立ち位置の違いからきている

主観、客観に分けるという発想が日本にはなかったのは、自然の捉え方が西洋と日本とでは伝統的に異なっていることと関係があります

紀元前6世紀頃の古代ギリシアに自然哲学が起こったとされていますが、その古代ギリシア人が最初に関心をもったものは、人間の周りにある自然です。自然は一体何で出来ているのか、その根源(アレテー)は何かといった素朴な疑問から、知の探究が始まることになります。そして、その知の探究がヨーロッパ大陸の中で継承され、西洋近現代思想として結実することになります

西洋においては、時代や国に関係なく、自然に対するポジションの取り方が同じです。主観、客観という言葉に象徴されるように、人間を自然の外に置いて、その自然の中に貫かれている法則を捉えようとしたのです。

ただ、その立ち位置ゆえに、そこから数学、物理学、天文学、医学、政治学といった様々な学問や西洋近代科学が生み出されていくことになります。法則を発見し、理解するのが学問なので、自分から一定の距離を置いたところにポジションをとった方が法則や本質を捉えやすいからです

西洋哲学における主観、客観の捉え方が一番分かるのが、デカルトの有名なテーゼ「われ思うゆえにわれあり」です。思う主体としての「われ」と肉体を完全に切り離して、どちらが本質的実在なのかという命題を立てています。

 日本の自然と一体という考えが、独自の文化を生み出す

日本では、そのように分けては考えてこなかったのです。それが一番分かりやすい例が、東洋医学と西洋医学の考え方の違いです東洋医学では体を切っての手術をしません。そこには自らの魂を傷つけてしまうという考えがあったのだと思います。肉体は単なるモノではなく、「われ」という発想だったと思います。西洋医学は、肉体をモノとして捉え、客観的存在として考えるがゆえに、解剖学から近代医学が発達することになります。

カルチャーという言葉の語源の中にも、西洋の自然に対する価値観を垣間見ることができます。カルチャーを動詞として使用する場合は、耕すという意味で使いますが、自然に手を加え改良することは是であり、それにより文化が成立するという考えがそこにはあります。だから実際にピラミッドやレンガ造りの城に象徴されるように、西洋は幾何学模様の人工美の文化となります

それに対して、日本の文化は自然の造形美をそのまま活かそうとします。城の石垣は形の異なった岩を積み上げ、日本庭園は人が手を入れていないかのように見せて、そこに自然のもっている力強さと美しさを醸し出そうとします。自然の中に人間が包摂されているので、自然と人間は対立関係ではないという考え方が根底にあります

 

 自然に対するスタンスの取り方は、国家・社会に対するスタンスと同じ

自然を人の外に置いたように、西洋では社会や国家を同じスタンスで捉えようとします。つまり、公と私を対立的に考えます。そのため、国家の対抗概念として権利という言葉が生まれることになり、その国家が暴走しないための保険的な考えである、革命や社会契約という概念を編み出します。

それに対して、「日本の『公』の特徴は、『私』というものを『公』の中に包みこんでしまう」(佐伯哲思『さらば、民主主義』朝日新書/2017年)という発想です。そのことは公(おおやけ)と宅(やけ)の語原からも、それを推察できます。国を大きな器に見立て、各人は家(宅)ごとそこにすっぽり埋もれてしまうというイメージです。従って、権利という概念が出てくる余地はありません。

ところで、その権利という言葉は「right」の翻訳ですが、明治の文明開化の時代に入ってきた言葉です。直訳すれば、正義、道理、善ということになるのですが、明治の文化人たちは大変頭を悩ませたことと思います。というのは、日本にそのような考え方がないということもあるのですが、国に何かを主張することを正義と言うことはできないと思ったからです。「権利」という翻訳には、多分苦心の裏話があるのではないかと思います。「権」の語源を調べると、余り良い言葉ではないことが分かります。はかりごと、重り、力というような意味です。それに「利害」「利益」の「利」をつけて「権利」という言葉をつくって当てたのです。

ちなみに福沢諭吉は「通義」という言葉を訳語として当てたのですが、原意を充分反映した言葉ではないと注釈をつけています。彼も、とてもではないが直訳できないという判断があったのです。

こういった事情が分からず「大日本帝国憲法の人権保障は不徹底で、臣民の権利は法律の範囲内で認められていなかったにすぎなかった」(高等学校『政治・経済』第一学習者)という記述の仕方を多くの教科書はしますが、単純に、けしからん的な問題ではないのです。ある意味、当時の時代においては、当然の処置だったのです。何事も歴史的な流れというものがあるからです

これらのことに象徴されるように、考え方の違いは当然法令や制度、国のあり方やつくり方の違いに影響を与えることになります。日本の法制度や政治の在り方を、時にはそのように見る必要があるのです。


 学術会議の問題の根底には、国家観の対立がある

例えば、今の学術会議問題に以上のことを当てはめて考えてみます。国会において立憲民主・共産対政府の対立構造がありますが、根底には国家観の違いがあります政党と国家・政府の対立構造で捉えようとする見方と政党と国家・政府をその延長線上で捉えようとする見方です。そのような国家観の違いがある中で話し合いをしても、上手くまとまることはないと思われます。

人生観、価値観が違う者同士が、幸せって何ですかと議論し合うようなものです。かみ合うことは余りないと思います。『日経』の調べによりますと、野党の学術会議に関する質問時間は全体の4割だったとのこと(11.8日付記事による)。完全に攻撃材料にして、不毛な議論をしていることが分かります。時間の無駄なので、別の話題で議論されることをお薦めします。

読んでいただき、ありがとうございました。

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