「凄まじい内容の本を読んでしまいました」
「どうしたのですか?」
「かつて行われた帰還事業を知っていますか?」
「どこへ、帰還するのですか?」
「あなたの年代なら知らないのがある意味当たり前だと思いますが、北朝鮮への帰還事業です。1950年代の末から1960年代にかけて在日の方たちの北朝鮮への帰還事業です」
「どうして、北朝鮮なのですか?」
「当時は、北朝鮮が工業国、韓国が農業国、しかも軍事独裁国家でした。北朝鮮が地上の楽園とも言われていた時代だったのです」
「私の生まれる前ですが、そんなことがあったのですね。ただ、誰も何もそのことを教えてくれませんでした」
「ある意味、歴史の暗部みたいなものですね。その帰国事業で日本から北朝鮮に行き、2度脱北をはかって、現在日本で暮らしている女性の方が書いた本なんです」
「凄い経験をしたのですね。いくつの時に北朝鮮に行ったのですか?」
「彼女が18歳の時に、彼女の父、母、兄弟5人が北朝鮮に渡っています」
「お父さん、お母さんは在日の方なんですね」
「お二人は戦後に韓国領となった地方の出身です。朝鮮総連の方が熱心に、「北朝鮮は地上の楽園」「高度な教育も受けられる」と盛んに言われて帰国を進められたようです」
「それで家族揃って帰られたということですね」
「長男だけ一人日本に残しての帰国だったのです。多分、長男は日本で生活基盤が出来ていたので、一緒に帰らなかったのだと思いますが、実はこのお兄さんが彼女にとっての「命綱」になるのです」
「具体的な話は、本文を読んで下さいということですね。ここからが本論です」
『冷たい豆満江(トマンガン)を渡って』——帰国者による脱北体験記
今日のブログで紹介する内容は、梁葉津子氏が『冷たい豆満江(トマンガン)を渡って』の中で書かれているものです。脱北は1度だけでも大変なのに、彼女は2度も行っています。脱北をして中国、そこから日本を目指すという壮絶な体験をされています。現在78歳です。いろんな偶然と幸運が重なって本の出版に行き着いたのだと思います。彼女の告発した勇気と励ましたいという気持ちが少しでもあるようならば、彼女が書いた本を買ってあげて下さい。下手な小説を読むより、面白いです。
その本の「帯」の文章を紹介します――「『地上の楽園』の謳い文句に騙された。父に連れられて『帰国』した女性が見たものは? それから37年、北朝鮮の生活に耐えられなくなった著者は、身体の弱い末っ子一人を連れ、極寒の豆満江を渡る……。」
題名の豆満江(トマンガン)というのは、北朝鮮と中国の国境を流れる川です。脱北者を見つけたら、銃で撃ち殺しても構わないという命令が出ているのでしょう。その川を渡る途中で命を落とす人も多いと聞きます。男性でも大変なのに、彼女は子連れで脱北をするのです。
脱北したのは北朝鮮に着いてから37年後です。37年間、北朝鮮の地で結婚もし、生活をしての脱北ということですが、彼女は「帰国」した瞬間から「ここは本当に来てはいけないところだった」と思うのです。彼女たち家族7人を乗せた船が新潟を出発し、その3日後に清津港に着きます。初めて見た祖国の山はハゲ山だったのです。森と海が繋がっていることを知らない北朝鮮の為政者は、山の木を全部切り倒して段々畑にしてしまったのです。そんなことをしたら山の緑は永久に失われ、山の保水作用がないため大雨が降るたびにふもとの町は水害に見舞われ、沿岸のプランクトンが育たないため、沿岸漁業は壊滅状態になり、魚を獲るためには遠く沖に出掛けなければいけなくなります。
清津港に着いた時の様子が描かれています――「両親に続いてタラップを降りるわたしたちを、北朝鮮の人たちは熱烈に迎えてくれました。しかしそこにいた人たちは、それまでわたしが日本で見ていた人たちとは、様子がまったく違っていました。……ここは本当に来てはいけないところだったという思いが実感となり、それまで自分でもわからなかった不安の正体を見てしまったのです。……」(16-17ページ)。
2度の脱北劇——苦難の末の日本への帰還
彼女の脱北の大きな原因は、飢饉です。金日成が死去し(1994年)、次の金正日の時代になると配給がストップし、約300万人が餓死したと言われています。そのため脱北して中国に決死の覚悟で行くのですが、元住んでいた所に連れ戻されてしまいます。しかし、その後再び彼女は深夜の豆満江を渡ります。凍り付くような寒さの中、凍り付いた川の上を保衛部員に見つからないように渡ったのです。
北朝鮮と国境を接する中国の東北部の町には、脱北ビジネスを行う中国人がいるのです。この地域は、現在でも開発が遅れた地域です。金銭的にも恵まれていないため、脱北者の弱い立場を利用する脱北ブローカや脱北情報を当局に通報して何らかの利益を得ていた者などが跋扈している社会です。彼女はそういう人たちを上手く使って、身分証明書を作ります。日本の兄からの資金援助も大きかったと思います。身分証明書がなければパスポートが作れませんし、それがなければ日本に戻ることができないからです。
ただ、中国に渡ってからも苦労の連続です。中国語が分からないということもあったからです。中国の脱北者専用の拘置所に入れられるなど、大変な苦労を重ね、最初の脱北を試みてから7年後に日本に帰ってくることができたのです。
しかし、この本を読んで、中国に脱北者専用の拘置所があることを知りました。その生活について書かれていますが、脱北者に対する厳しい尋問、時には拷問が行われていたことが分かります。殆どの者は、ここから北朝鮮に送還されるのですが、彼女の場合はここから日本行きとなります。多分、中国で日本からの救援NGOに出会ったことが幸いしたと思います。救援NGOから外務省ルートを使って、中国に働きかけをしたと思われます。彼女は、その拘置所から日本の領事館に送致されます。そして、日本への帰国が実現するのですが、そこでハッピーエンドにはなりません。
( 帰還事業/「論座」)
帰還したからといって、ハッピーエンドでは終わらない
まず、中国領事館から来た日本の外務省役人の冷たい態度に遭遇します。帰還事業で北朝鮮に行った人間が脱北して、日本に戻る例は聞いたことがないためではないかと著者は推測しています。
そして日本に帰った後の彼女の「悩み」は、「定住者」という法的立場のため、あくまでも在留資格が与えられた「外国人」として扱われてしまうということです。
定住者 | 永住者 | |
在留期間 | 6か月、1年、3年、5年 | 無制限 |
在留資格の更新 | 必要 | なし |
就労制限 | なし | なし |
参政権 | なし | なし |
外国人登録 | 必要 | 必要 |
定住者として10年間日本で普通の市民として暮らして居れば、永住者として認定されます。
彼女は18歳まで日本で暮らし、日本の義務教育を受けているのですが、北朝鮮に渡ってそこからの帰還者という扱いになってしまいます。実は、法は彼女のようなケースを想定していないと思うのですが、法の規準に合わせれば、日系人や難民認定をうけた外国人と同じ扱いの定住者ということになってしまうのです。
定住者、永住者を経て帰化申請をして、受理されれば日本国籍の取得となり、日本人として扱われるという手順です。
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