
「明治維新を「士農工商の時代から四民平等の時代」ということで習ったと思います」

「ええ、それが何か?」

「決して平等社会を作ろうとは彼らは思ってみなかった、という話を今日はしたいと思います」

「天は人の上に人をつくらずと説いた人もいますし、自由民権運動がありましたよ」

「華族制度を1884(明治17)年に作っています」

「名前くらいは知っていますが、詳しくは知りません」

「内閣制度が作られるのが1885年、議会政治が始まるのが1890年ですから、それより以前にそういった制度を少数の人間の合議で決めてしまったのです」

「そこに問題意識があるのですね」

「権力周辺を先に固めてしまおうという思惑があります」

「その部分においては、上手くいったのですね」

「地位を与えられて、特権を与えてもらえば、誰もが喜んで、政権を支えようとするでしょう」

「叙勲には何の特典も付きませんが、それでも皆さん喜んでいますものね」

「その特権が子や孫に受け継がれ、敗戦まで政権を支える力となったのです」

「ここからが本論です ↓表紙写真は「You Tube」からのものです 」
「四民平等」の現実と壬申戸籍の実態
明治政府が掲げた「四民平等」は、日本社会の近代化を象徴するスローガンでした。『山川日本史』教科書には、「『農工商』の百姓・町人は平民となり、苗字が許され、華・士族との結婚や、移住・職業選択の自由も認められて、いわゆる四民平等の世になった」と記されています。しかしながら、その実態には複雑な階層意識と制限が根強く残っていました。
1872年に作成された壬申戸籍は、近代的な戸籍制度の出発点とされますが、実際には出身階層、職業、さらには犯罪歴までが記録されたもので、封建的身分制度の名残が色濃く残っていました。1873年当時の人口構成をみると、華族が2829人、士族が約155万人、卒(足軽)が約34万人、平民が約3111万人、そして僧侶・神職などが約30万人でした。総人口3,330万人の中で、士族層は大きな割合を占めており、彼らの扱いは新政府にとって政治的にも財政的にも重大な課題でした。
このため、政府は華族・士族に対して「家禄」や「賞典禄」を支給し、不満の火種を抑える工夫をしていました。特に士族に対する家禄は、いわば「心の保険」としての意味合いが強く、実質的には生活の安定を支えるほどの額ではありませんでした。そして、1876年には廃刀令の発布と同時に家禄が全廃され、士族階級は経済的にも精神的にも解体されていったのです。
士族制度を廃止した明治政府は、新たな支配層の再編として1884年に「華族令」を制定しました。この制度は、西洋諸国の貴族制を範に取り、日本型の階級制度を再構築したものです。華族は公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五爵に分類され、それぞれが「明治維新」の功績や家系、出自に応じて叙爵されました。
爵位 | 意味 | 家数 | 主な該当者 |
公爵 | 最高位 | 約11家 | 旧皇族の一部、江戸時代の大藩主 |
侯爵 | 次席 | 約39家 | 譜代・外様の有力大名 |
伯爵 | 中堅 | 約101家 | 中規模の大名、維新の功労者 |
子爵 | 下位の貴族 | 約324家 | 小規模の大名、官僚や軍人の功労者 |
男爵 | 最下位の爵位 | 約409家 | 維新に貢献した実業家や学者 |
(「明治政府による新しい国づくり」)
華族の子孫を新たなエリートにするという思惑
華族制度は単に旧来の支配階層を温存するものではなく、維新後の新たな功労者を取り込んで、明治政府への忠誠を制度的に担保する役割も果たしていました。実際に、旧大名や公家に加えて、明治維新の功労者や政府高官、軍人なども華族に列せられています。
また、1873年に制定された徴兵令により、全国民男子に兵役義務が課せられましたが、華族男子はこの義務の対象外とされていました。代わりに、彼らは学習院や陸軍士官学校、海軍兵学校といった教育機関を通じて、将校などのエリート軍人として任官する道が用意されていました。こうして、華族は明治国家の軍事・官僚機構の中核を担う役割も与えられていたのです。
士族が制度的に解体され、華族が新たな国家エリートとして制度化されたことは、身分的な上下関係が形を変えて再編されたことを意味します。表面的には「四民平等」が唱えられつつも、実際には階級的な序列が制度的に強化されただけだったのです。
孫に受け継がれた例として次のものがあります
家名 | 初代 | 2代 | 3代 |
岩倉家(公爵) | 岩倉具視 | 岩倉具定 | 岩倉具張 |
山縣家(公爵) | 山縣有朋 | 山縣伊三郎 | 山縣有光 |
大久保家(伯爵) | 大久保利通 | 大久保利和 | 大久保利賢 |
(「中学受験ナビーマイナビ」)
戦後の家族制度廃止と華族のその後
第二次世界大戦の敗戦は、日本の国家体制と社会構造に大きな変化をもたらしました。1947年の日本国憲法の施行により、華族制度は廃止され、形式的にはすべての国民が平等となりました。宮内省の1946年時点の資料によると、当時の華族家は1016家存在していたとされています。
制度上は解体された華族ですが、その多くは戦後も経済界、政界、文化界などで活躍し、一部は旧家の威信を保ち続けました。戦前を「我が世の春」と懐かしむ声が多いのも、こうした社会的優位の記憶に基づくものでしょう。
一方で、爵位の授与に対しては、時の人物たちの中に様々な立場や信念が見られました。福沢諭吉は家族制度そのものに否定的な立場から、爵位を完全に辞退しました。大隈重信は一度は辞退を示唆したものの、最終的には受け入れています。原敬も平民宰相として爵位に頼らない政治を掲げましたが、晩年には叙爵されています。これらの例からも、近代日本における「名誉」と「平等」の間の揺らぎが垣間見えます。
制度としての華族はなくなっても、その影響は現代にもなお残されています。「明治維新」への幻想的なイデオロギーを支える力にもなっています。日本社会の歴史的文脈を考えるうえで無視できないのです。
(「Spaceship Earth 」)
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