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通知表について考える ―― 通知表廃止は、教育法と教育原理に対する無知がもたらしたもの / 近代教育の成立期に通知表が考案される

「通知表をなくした学校があるそうですね。茅ヶ崎市の香川小とニュースでやっていました」

女性

「その話題は知る人ぞ知るで、結構有名な話なんです。2年くらい前からそうしたみたいですね」

「定期テストを止めたという話は、たまに聞きますけど、通知表をなくしたのは初めてですね。もし、お子さんの小学校が通知表を廃止にしたら、どうしますか?」

女性

「困りますね。私は廃止はダメだと言うと思います。法的に問題はないのですか?」

「明文規定はありませんが、学校の教育営為は親からの委任事業と考えると、報告義務が発生するので、全く問題なしとは言えないと思います」

女性

「複雑な言い回しをされますね。問題ありと断言できないということですか?」

「要するに、何らかの報告がなされていれば良いのです。それが良いか、悪いかは別にして。テレビでは、端末から子どもの様子を毎日発信しているという先生を紹介していましたが、それもありです」

女性

「保育園じゃああるまいし、毎日発信されて却って迷惑と思っている人がいると思いますけど……」

「本当は、そういうものを担任サイドで取りまとめて、伝えなければいけない情報だけを通知表に書いてくれれば良いだけの話ですけどね」

女性

「私もそう思うのですけど、結構、通知表の廃止、定期試験の廃止について、賛成する人が教員も含めて多いのです。中には、そういうものが不登校の原因と捉える人もいるのです」

「通知表や試験は、はるか昔からあり、不登校というのは最近の現象です。通知表や試験と不登校を結び付けるのは無理があると思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙のイラストは「note—つくる、つながる、とどける」提供です

 近代教育の成立期に通知表が考案される

通知表の歴史は古く、学校と家庭とが子どもの教育の効果を上げるため, お互いの協力 し合う目的をもって往復連絡文書として1890年前後から自主的に登場したと言われていますその事例を文部省が1891年の小学校教則大綱で各学校に知らせたところ、それをきっかけに全国的に広がり、定着したとのことです。

文部省の創設が1871(明治4)年、翌年に学制を発布して近代教育が採用され、1886年の小学校令によって義務教育を導入します。もっとも、当時は尋常小学校の4年間だけを義務教育としたのです。それからしばらく経って、通知表が導入されたのです。

当時の義務教育は有償です。そのため、貧しい家庭の子は小学校にすら通えませんでした。そのような中、親に対して授業料を出す義務があると言う限り、教育した側に連絡義務が当然発生するだろうということで始まったものだと思います。現代においてもその構造は変わっていませんので、学校側が保護者に対して分かりやすく子供の状況を発信する義務があることは確かです。勝手に中断することは許されないと考えます。


(当時の就学率/「文科省」)

 通知表廃止は、教育法と教育原理に対する無知が産み出したもの

通知表に書く内容については、各学校で決めて良いのです。子供たちが余りに点数にこだわる状況を好ましくないと思うならば、点数表記をやめて、例えば「繰り上がり、繰り下がりの計算を戸惑うことがあります」というように、文字にすれば良いだけのことです。実際に、私立学校の中には、点数表記をしないで、すべて文字による評価をしている学校があります

ただ、それも良し悪しだと思っています。数字で表すことによって容易に理解できるというメリットがあります。そこで、厳しい評価をもらったとしても、本人がそれを受け止めて、その後努力すれば良いだけの話だと思います。

ただ、ここに来て通知表廃止の動きが現場から出ているような状況に鑑みて、何のために通知表を出しているのかということを通知表に書きこむ必要があるのかもしれません。通知表の一番最後のページに配布の意義を短い文章で構わないので書き込む必要があるのかもしれません――「人の能力は個人個人違います。出来る、出来ないは個人によって違います。人によっては全て出来てしまう子がいるかもしれません。ただ、そういうことをお互いに比較するために通知表を出しているのではなく、その子の能力と適性がどこにあるのかという手掛かりになって欲しいという思いで出しています。お子さんに対して、生まれて初めて第三者が出す客観的評価です。これを手掛かりにお子さんの将来の進む方向について各ご家庭で話し合いをしていただきたいと思います。」

学校と家庭で協力して、その子が将来どういう分野で活躍することが出来るのかを発見することが一番目に重要なことです。そして、それを安定的に実現するために必要なのが学力と体力です。それらをバランス良く取得しているかどうかを第三者が公平な目で判断するところに通知表の意義があります。そのため、定期テストの点数や模擬試験の偏差値をそのまま書くといった学力偏重の通知表を出すことには反対です。知力、体力、そして自分の能力をどの程度認識し、開発しようとしているのか、この3点がバランス良く書かれているのが良い通知表だと思います。

(「アップステーション」)

 学校は何のためにあるのか

あるフリースクールの事案をもとに考えたいと思います。不登校が24万人を突破し(2023年)、そういった子供たちを専ら受け入れるためにフリースクールを開設する事案が増えているとのことですが、東京シューレ学園もその1つです。

ホームページから東京シューレ葛飾中学校の記事に辿り着きました。廃校となった小学校を利用して2002年に創設された定員120名の私立中学校です。登校時間、下校時間、服装、髪型は一切自由とのこと。肝心なのは、カリキュラムとアイデンティティの形成です。その視点で見てみました

日本語(2)、数学(2)、理科(2)、社会(2)は40分単位、美術(2)、技術家庭(2)は50分単位、体育(1)、音楽(1)は50分単位です。( )内の数字は週当たりの時間数。各科目の実力は、一般教養程度で良いという考え方なのでしょうが、これでは進学校と言われる高校に行くことは到底無理です。

ただ、このフリースクールの特徴は「それ活」(4.5)「いろいろタイム」(1日)「プロジェクト」(2)と「コミュニケーションタイム」(1)といった自由裁量の時間が多いことです。この時間に自分の将来の生き筋を見つけることが出来れば、これはこれで有意義だと思います。そして、中には小学校、あるいは中学校に通っている間に生き筋を見つけてしまった人、例えば、プロスポーツ、囲碁や将棋の棋士、音楽、ダンス、演劇、歌舞伎などの芸術や芸能関係、さらには農業、漁業などへの進路を考えている人にとっては、うってつけの学校だと思います。

だから逆に、単純に不登校になり、学歴目的で入学して来るような人だと、確かに学歴は取得できるものの、学力が身に付かないまま進学したり、社会に出される可能性が高いでしょう。そうなると、現実社会では殆ど人材として使ってもらえないという事態も起こり得ます。文明社会の中で生きるためには、それなりの学力が必要です。それがなければ、社会の中で彷徨(さまよ)うだけです。

そういった現実がありながら、ただ単に楽しい子供時代を送らせたいということだけで学校のカリキュラムを組むのは無責任だと考えます。責任ある行動が教育者に求められています

(「千葉県の通信制サポート校なら成美学園グループ」)

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