「2018年に文科省が公表した「高等学校学習指導要領案」によりますと、2022年度に入学する生徒から、新たな必履修科目として「公共」「歴史総合」「地理総合」を学ぶことになります」
「従来あった科目はどうなるのですか?」
「従来からあった地理、日本史、世界史、倫理、政治・経済といった科目は選択科目となり、必修の3科目を学んだ上で履修することになります。現代社会は廃止となります」
「「歴史総合」は、近現代史だけと聞いたのですが、本当ですか?」
「日本史と世界史を総合するという考えから来ていると思うのですが、通史は無理なので近現代史をということでしょう」
「社会科の科目はよく変わるという印象があるのですが……」
「ちなみに、高校社会科は1994年度より廃止して、「地歴科」と「公民科」に分けました。その上で、「世界史」だけを必修とし、他の科目はすべて選択としたのです」
「私が高校生の時は、世界史を勉強したと思います。カタカナが多くて、苦労した覚えがあります。日本史ではなく、どうして世界史が必修になったのですか?」
「当時の文科省の理屈は「グローバル化時代」が今後ますます進展するので、日本人として世界的視野を広めるためにもすべての生徒が世界史を学ぶ必要があるというものでした」
「一瞬そうかなと思いますが、よく考えてみると変な理屈ですよね」
「まあ、そうですね。グローバル化が進むので、アイデンティティの確立のためにも、自国の歴史を深く学ぶ必要があると思います。あと、たぶん文科省の頭の中は、小・中学校で日本史を勉強しているので、高校で世界史を勉強させれば、歴史については完璧と思ったのではないでしょうか」
「その辺りについて、きちんとした総括はなされているのですか?」
「文科省というところは、そういうことをしないのです」
「どうしてですか? 」
「何か昔からそういうところがあります。先人を傷つけることがあってはいけないみたいなものが働くのではないでしょうか」
「一種の忖度ですか。ここからが本論です ↓」
中学の歴史は「歴史総合」になっている
高校で日本史と世界史を総合した上で、近代以降を扱うというコンセプトの科目をつくるならば、中学の歴史を純粋に日本の通史にする必要があります。というのは、近代以降が重複するからです。
実際に中学の歴史の教科書を見ると、最初は人類の誕生、四大文明、三大宗教という項目の後に日本列島の誕生、縄文文化とあります。だから、これを縄文文化から始めるようにすれば良いと思います。そこから始めても、なかなか最後までいくのは大変だと思うからです。
中2で歴史、中3で公民を習うというのが、一般的だと思います。公民の政治編では日本国憲法が中心なので、中2の歴史で少なくとも終戦まで終わっていればいいのですが、江戸時代あたりで終わってしまったということが結構あったのです。私学は入試がないので、担当者によっては、そういうこともあるのです。
あと年配の先生方の中には、近現代史軽視の傾向がありました。近現代史についてもしっかり勉強しなくてはいけないと言い始めたのは、最近になってからではないでしょうか。私の高校生の時代は、近現代史は自学自習で勉強するものだと言われた覚えがあります。そういうこともあり、今の政治家は近現代史が分かっていないのではないかと思います。韓国や中国から何か言われても、まともに反論できないのは、そのためではないかと思っています。
そんなこともあり、教員として就職した時に年配の歴史の教員に聞いたことがあります。「どうして、近現代史をやらないのですか」と。その大先輩いわく、古代と中世史が難しいし、歴史の基本である。そこがしっかりできていれば、近現代史は分かる。そして、近現代史なんてものは、あれは歴史ではない。さらに、配当された時間(週4時間)で通史は無理。どうしても通史をやれというならばやるが、中身の薄いものになってしまう。であるならば、古代史からきちんと丁寧にやってあげた方が生徒にとってもいいのでは、というものでした。
古代と中世史が難しく、それ以外は易しいということはないと思いますし、通史を学ぶことによって見えてくる一つの流れがあります。日本は世界で最も古い王朝を有する国です。山あり谷ありの歴史を中学で一通り学ぶべきでしょう。
「歴史総合」――学習指導要領によって示されているもの
B 近代化と私たち
(2)結び付く世界と日本の開国
(3)国民国家と明治維新
C 国際秩序の変化や大衆化と私たち
(2)第一次世界大戦と大衆社会 [第一次世界大戦~一九二〇年代]
(3)経済危機と第二次世界大戦 [世界恐慌~サンフランシスコ講和会議]
D グローバル化と私たち
(2)冷戦と世界経済 [一九五〇年代~一九六〇年代]
(3)世界秩序の変容と日本 [石油危機以降]
これを見て気になるのは、「結び付く世界」というタイトルです。というのは、日本は開国をしたのではなく、させられたからです。西欧列強の植民地競争という大海の中に投げ出された一艘のボートのようなもの。右に行けば良いのか、左に行けば良いのか分からず右往左往する中で、嗅覚の鋭い若者たちが中心となって日本救国のため明治維新を成し遂げるのです。
「明治維新」をどう捉えるか
「英語では明治維新は『Meiji Restoration』と呼ばれる。「Restoration」は復古や復元という意味であり、たしかに王政復古によって明治以後は『天皇を中心とした政治体制』になった。とはいえ、『天皇親政』は建前にすぎず、政治は実質的に内閣と帝国議会に委ねられ、天皇は裁可を下すだけであった」(黄文雄『日本が世界に尊敬される理由は明治維新にあった』徳間書店.2017年/16ページ)
天皇はいつの時代も権威の象徴であり、権力者として振舞ったことはありません。それは明治憲法下でも同じです。明治維新は、幕府という武士政権に委任していた権力を、今度は内閣の大臣に預け替えをしただけです。臣というのは、もともとそういった地位をあらわす言葉です。
日本の王朝は世界一古い歴史と伝統を有していますが、それは天皇が権威の象徴であったためです。権力者は常に時代の中で滅ぼされ、消えていく運命を辿ります。そのようなことに気付いた先人は、権威者の天皇と権力者を切り離して、両者の「協力」によって日本の社会を統治することを考えます。そういった日本独特のシステムは7世紀古代の時代にその原型が作られています。
日本にしかないシステムや考え方がそこにはありますが、それを西洋史観や「唯物史観」という「色メガネ」で見ようとすると正しく見ることができなくなります。
ところが、「歴史総合」という名のもとに、日本の歴史を西洋史観で捉えようとしているように見えます。指導要領案の歴史観では、世界史的に「近代民主主義」は、十九世紀後半になって「国民国家」の確立の上に成立したことになっており、「18世紀後半以降の欧米の市民革命」も、Bの(3)との関連でとりあげるように指定されているからです。
明治維新を市民革命のようなものとして捉えようとしているのだと思いますが、「革命」の担い手は政権の座に就くものです。ところが、明治維新の担い手たちは主に下級武士たちです。彼らは、権力を手にしていません。だから、革命と考えることには、無理があります。純粋に日本の国の将来を憂いて、立ち上がり行動したのです。無私の精神が世界でも奇跡と言われるような成功を収めたのだと思います、
明治維新期に活躍する人たちの一人ひとりの生き様は、「道徳」の教材としても使うことができると思います。
読んでいただき、ありがとうございました。
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