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小中の不登校34万人最多人数を更新―― 不登校の増加は、教育界の構造的な問題が原因 / 戦前は矛盾が顕在化しなかっただけ 

「前回は同性婚の話題でしたが、あの後図書館に行って、「読売」や「朝日」など、それに関する新聞記事を読みました」

女性

「いかがでしたか?」

「共通しているのは、掘り下げが少ないということです。表面的に判決の解説を書いて、国際動向を述べて終わりという感じです。訴訟当事者の声を「東京」は伝えていましたが、一番伝えなければいけないのは、それを法的に保障した場合の危険性です」

女性

「すべての人が善人ではありませんからね」

「前回のブログで話をしたように、相続財産を狙っての偽装結婚もあるでしょうし、偽装国際同性結婚によって外国人を入国させる手段にもなり得ます。ほどなくして離婚をして、同じことを繰り返せば2人、3人と国内に入れることができます。それを組織的に行うことを考える団体も出てくるでしょう」

女性

「ただ、そういう踏み込んだことを新聞は書けないのではないかと思います」

「それは善意の解釈ですね。新聞社の中には、日本社会を内部から崩壊させようと考えている人が紛れ込んでいます。愉快犯的な立場から記事を書く場合があります。同性婚の話はこれくらいにして、今日は不登校の問題について論じたいと思います」

女性

「こちらも重要な問題ですよね。少子化で子供の数が減るのに、不登校の生徒は増えています。これは何故でしょうか?」

「これも同性婚の問題と同じで、正面から取り組もうとしている新聞が恐らくないのではないかと思います。『日経』が3面トップでかなりのスペースを割いて報道していましたが、表面的な記述で終わっています」

女性

「それでは、新聞を読む意味がないと思いますけど……」

「どの新聞も部数を減らしているのは、そんなところに原因があると思います。私なんかは、単に情報を取るためだけに読んでいるようなものです」

女性

「だったらSNSだけで良いのでは……」

「新聞は速読が出来ます。10分もあれば、2~3紙読めます。かなりの時間節約になります。SNSはそういう訳にはいきません」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙写真は「NHKニュース」の提供です」

 不登校の増加は、教育界の構造的な問題が原因

2023年度に不登校だった小中学生が前年度比16%増の約34万6千人となったことが文科省の全国調査で分かりました。不登校の増加は11年連続で、30万人を超えるのは初めてということです。少子化で子供が減っているのに、不登校の子どもが増えているという異常事態を前にして、新聞はその根本原因について分析・解明することができない。殆ど存在意義がないのではないかと言わざるを得ません。

教育界には構造的な問題があり、それが原因となって不登校が増加しているのです。家に例えると、土台部分から建て直す必要があるのです。そこを直さないから、年数が経つごとに建物が傾き始めたということです。このままでは、どこかで倒れるかもしれません。倒れそうな建物に人が近づかないように、子供や教師が離れ始めている。そういう状況です。

土台というのは日本の中央集権的な教育行政そのものを指しています。現在の教育行政は、明治4(1871)年に文部省(文科省)を創設した時から続いています。内閣制度の発足が明治18(1885)年ですから、随分早く創設したことが分かります。明治の藩閥政府は富国強兵国家を推進するため、どうしても標準語で国民を統一的に教育する必要があると考えたのです。

(「アップコン」)

 江戸期は地域の実情に合わせた教育が行われていた

翻って江戸期の教育を見てみます。幕末には各藩に藩校があり、寺子屋がありということで、それぞれ独自の考え方で教育が行われていました小さな藩ほど教育熱心な傾向があります。典型的なのは、津和野藩でしょう。現在の島根県の最西南端にあった藩ですが、外様雄藩の長州藩と親藩の浜田藩に挟まれた小藩です。

どうやって生き残るのか。そういった自問自答の末に人材を育てる以外にないとの結論に至ったと思われます。9代藩主矩賢(のりかた)の時に藩校養老館を設立して、文武両道を謳いながら人材育成を図ります。養老館が設立されたのは天明年間ですが、その時点で藩校が全国に94校あったことが分かっています。最終的に幕末までに藩校は284校になりますので、早い動きであったことが分かります。

養老館への入学は15、6歳でした。それまでは城下の私塾や寺子屋で四書五経を中心に学んだのです。生徒数は約50名(通学30名、寄宿生20名)です。寄宿生の半分以上は給費生なので、家が貧しくても能力があればここで勉学ができました。この小さな藩校から、日本近代哲学の祖と言われた西周、明治の文豪の森鴎外、日本紡績業の父と言われた山辺丈夫(やまべたけお)、日本地質学の父と言われた小藤文次郎など多くの人財が輩出したのです。

ほんの一例を紹介しましたが、江戸末期は各地でその地域の実情に合わせた教育が行われ、地域が求める人材を育成していたのです教育というのは、もともと後継者育成のために始められたものです。農村部であれば農業のこと、山間部であれば林業のこと、商業地であれば経済や流通のことを重点的に教える必要があります。全国共通で同じことを教えていれば、当然そこに様々な問題と矛盾が生じることになります。

(「島根観光ナビ/藩校養老館」)

 戦前は矛盾が顕在化しなかった

そのようなことを書くと、なぜ戦前、つまり明治期から昭和の時代にかけては矛盾が生じなかったのかという疑問が湧きます。そもそも、矛盾が生じたからと言って、すぐに現象面に表れる訳ではありません。タイムラグがあるということです。そして、新しい制度が導入された時は、誰もが期待するものです。否定的に捉える人は少なく、肯定的かつ善意に捉えようとします。どんな人が総理大臣になっても、組閣した時は支持率が上がるのと同じ理屈です。

日本で近代教育が整備された時期と産業革命によって工業化、都市化が進展した時期が重なります。さらに地域の共同体が機能していた時代です。地域で必要な知識はその地域で学び合う、そして家庭は今のような核家族ではなく大家族が殆んどですので、生活する中で年長者から様々なことを学ぶことが出来たと思います。

子供を取り巻く環境が自然に整備されていた時代でしたので、学校で全国一律教育が実施されたとしても、そこに何ら矛盾を感じることはなかったと思います。そして、戦前の教員は師範学校という別枠で養成されていました(下の写真/当時はどこの師範学校も丸刈り学生服で授業を受けていたようです)。師範学校の学費は無料です。そんなこともあり、家が貧しく能力が高い方を教員として養成できたのです。現代と比較をすれば分かると思いますが、地域の共同体が機能しなくなっていますし、核家族が多く、家庭教育の機能も低下しています。教員は開放免許制のため、一般の学部生でも教員免許を取得できます。もともとあった矛盾が顕在化するようになったということです。

次回に現代教育を取り巻く、様々な負の状況について書きたいと思います。

(「東京学芸大学大学史資料室/師範学校の授業風景」)

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