「9月入学は、ひとまず落ち着きましたよね」
「そうですね。突然出てきた提案でしたが、一時(いっとき)は、そのまま決まるような勢いがありましたからね」
「教育学会とか、いろいろな団体が反対をしましたからね」
「政治家の中には、良いチャンスだから、このまま9月入学に踏み切ったらどうかという無責任なことを言う人もいましたね」
「普段、教育について何も考えていない人に限って、ナイスアイディアという感じで飛びつくのでしょう」
「飛びつくのは良いのですが、もし、そうなったら現場は学校行事を全部見直さなければいけなくなります」
「単に、入学式をずらせば良い訳ではないということですね」
「今回のことで腹立たしいのは、9月入学の話題が一区切り終わると、何もなかったように戻ってしまったことです」
「マスコミは教育について、何も報道しなくなりましたよね」
「教育は絶えず考えるべき問題なので、新聞社も連載ものを用意して、国民の教育意識を高めるように継続的に記事を掲載して欲しいと思っています」
「例えば、どんなことですか?」
「家庭教育の話題でも良いですし、各学校での教育実践でも良いですし、子供たちの活動と笑顔を発信して欲しいと思っています」
「そうですよね、新聞だからということで、政治的・経済的な出来事ばかり並べる必要はないですよね」
「新聞の部数減を抑えることにもなると思います。幼児向けのページ、小・中学生向けのページ、高校生向けのページが常にあっても良いと思いますし、教育のことは誰もが関心をもっていると思うのです」
「新聞はこうあらねば、というステレオタイプの考え方から脱却する時代ということですね」
「何か、最近言うことが違ってきてますね」
「ありがとうございます。ここからが本論です ↓」
「学校教育支援 後回しにしないで」の投稿
朝日新聞(2020.6月)に栃木県に住むある高校の男性教員(55歳)が「学校教育支援 後回しにしないで」と題した投稿をしています。それを紹介します。
「もし、学校で海外並みの20数人の少人数学級が実現していたら、教室は密になることなく、分散登校の必要はなかっただろう。双方向のオンライン授業を行っても生徒全員を認識できるだろう。
もし、1人1台の情報端末機が整備され、ICT教育を進めていたら。進度の格差がこれほどまでにつくことはなかっただろう。
もし、学校の全施設にエアコンが設置されていたら。夏休み中に授業をしても、これほどまで熱中症の心配をしなくて済むだろう。……」
投書はさらに続くのですが、投稿者が言いたいことは、先進国では当たり前の教育環境整備が遅れていると言っているのです。私の勤務校は私学なので、エアコンについては流石(さすが)に校内の全施設に設置されています。ただ、公立ではエアコンが設置されていない教室や特別教室、設置されていても電気代節約のため、温度が教育委員会によって管理されてしまっていることがあるそうです。
今年度は「教員の働き方改革」の最初の年度です。2019年1月に「公立学校の教師の勤務時間の上限に関するガイドライン」が出ました。ガイドラインなので、法的拘束力はなく、あくまでも目安ですが、そこで出された基準は「月45時間、年間360時間」です。現実には、それよりもオーバーするだろうと言っていたのです。「夏休みなどを上手く利用して」ということを言っていたのですが、今回のコロナ禍でその思惑も上手くいかなくなりそうな状況です。
文科省は教員数を増やすなど、教育条件整備に目を向けろ
統計をとる場合、日本の教育あるいは日本の教員ということで、公立と私立を合わせてデータを取るため、公立学校の問題点が浮き彫りになりません。しかし、学力や生活実態などを含めて、公立学校の教育条件はかなり悪いと思います。勤務時間は日本の公立小学校54.4時間、公立中学校56.0時間は調査に参加した48か国・地域の中で最も長いことがわかっています。
どうして、こういうことが起きるのか。簡単に言えば、政府が教育政策について関心をもっていないからです。少子化のからみで、待機児童の解消とか保育政策は打ち出していますが、教育政策は文科省に丸投げ状態です。
文科省というのは、単に公務員上級試験に合格した者が集まっている行政府に過ぎません。教育の専門家を集めた訳ではありません。それでどうしているかと言えば、審議会に大学の教員を集めて意見を聞いて国の教育政策としてまとめているだけです。ただ、オチがあって、大学の教員も現場を知っている訳ではありません。だから、時に現場の感覚とはズレたことが方針として出てくることがあります。
やるべきことをやらずに、やらなくても良いことをする文科省
一般論ですが、組織全体として、何に対してどのように動いたのかを見れば、その組織のレベルとトップの力量が分かります。
掴んでいる情報は、主に3つです。大学共通テスト、9月入学、スマホ学内持ち込み問題です。
大学共通テストについては、論述式試験の導入を目論んだのですが、ご案内の通り頓挫してしまいました。採点の公平さや、その処理の問題を巡って乗り越えるべきハードルが高かったということです。
そもそも、大学入試をどうして全国共通で行わなければいけないのか。こういう発想のきっかけは大学共通一次試験が始まりですが、最初はあくまでも国公立大学の足切り的な意味合いがあったのです。
つまり、共通一次によって自分の点数の上での立ち位置が分かり、それを参考にして最終的に国立大の志望校を決めるようにすれば、受験生にとっても有難いだろうという考えから来ています。
その共通一次がセンター試験になります。そのセンター試験への私立大学の参入を認めますが、ここから「変質」が始まります。センター試験が、日本の国公立から私学のランク付け試験になっていきます。そして、その延長線上に大学共通テストが位置付けられることになります。
こういう序列化が図られてしまうと、生徒たちは何を考えるかというと、自分の特性や適性、さらには将来像を考えることなしに、点数や偏差値で大学や学部を選ぶということをするようになります。そのような試験に変質させておいて、そこで記述式を導入したからといって、何か意味があるとは思えません。記述式の導入は、単なる思いつきの域を出ないような代物なのです。
2番目の9月入学は、もはや遅れた話題ですのでコメントは敢えてせずに、スマホの話題に移りたいと思います。つい先日の6月24日に、文科省が中学生のスマホの学内持ち込みを認める素案を有識者会議に提出するというニュースが流れました。
しかし、そういうことを、文科省や有識者会議で議論するべきことではありません。教育現場は地方によっても、学校によっても違うからです。そもそも学校には自治権が認められるはずです。スマホの持ち込みといった些末な問題については、各学校レベルで判断すれば済む話です。
文科省は中学校だけを考えているようですが、小学校、中学校あわせて考える時代です。オンライン授業では端末が必要です。端末を持たせておいて、スマホは駄目というのでは、ほとんど漫才です。
デジタル機器のことがよく分かっていない人達が集まって決めるようなことではなく、地方の教育委員会に任せるべき問題だと考えます。
なんでもかんでも文科省という発想は、まるで中国です。教育自治、学校自治、地方自治を認めることにより、子供たちは空高く羽ばたくことができます。子供たちや保護者、現場の教員を含めて、現場サイドに任せるべき問題です。文科省には、教育環境整備という重要な問題に関わって欲しいと思っています。
最後に、冒頭の投稿文の締めの言葉を紹介します――「国に、国民にお願いしたい。社会が変わらないのなら、学校を支援して欲しい。教育にお金をかけて欲しい」
読んで頂きありがとうございました。
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