「NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていますか?」
「歴史物は好きなので、観てますよ。あれを見て、家康の見方というか、イメージが変わりましたね」
「結構、そういう人が多いみたいですね」
「タヌキ親父というイメージは無くなりましたね。松本潤が演じたのが、大きかったかもしれませんね」
「だけど彼は苦労人ですよ。その中で学んだものが多くあり、それを晩年の戦いや部下の掌握、統治の組織に生かしています」
「圧倒的に不利だとされていた関ケ原の戦いに勝ったのは、やはりそういった部分が大きかったのでしょうね」
「そうだと思います。天下分け目の関ケ原と言いますが、古代にも関ケ原の戦いがあったことを知っていますか?」
「それは知りませんでした」
「672年の壬申の乱です。弘文天皇と大海人(おおあま)皇子が関ケ原で激突します。最後は弘文天皇が自害して終わります」
「関ケ原は一日で終わりましたが、古代の関ケ原は何日くらいで終わったのですか?」
「こちらは1か月間戦いが続きました」
「勝った方は、どうしたのですか?」
「大海人皇子は飛鳥浄御原で天武天皇として即位します。天皇を打ち倒して、勝者が天皇になるのは、これが最初で、その後はありません」
「まさに天下分け目の関ケ原だったんですね」
「彼らの戦い方やその後の政策に注目をして、その中から教訓を得られればと思っています」
「ここからが本論です ↓」
紙一重の差で勝った戦い
1600(慶長5)年9月15日に起きた関ケ原の戦い。戦いは1日で終わっていますが、戦い方によっては西軍(三成)方が勝っていた可能性もあり、紙一重の差で徳川方が勝った戦いと言えます。そういう意味で、興味を惹きつけるのでしょう。この戦いを巡って、現在も当時の史料の読み直しなどを通じて議論が進んでいます。
歴史にイフは無いと言われていますが、紙一重の差と書いたのは、最近になって「玉城(たまじょう)」が秀頼の御座所(ござどころ)として三成が考えていたのではないかと言われているからです。御座所というのは、総大将が位置する場所です。
玉城は標高310mの城山で南北朝期に作られ、その時期に築造されたことが確認されているそうです。関ケ原古戦場の西方、小西軍や大谷軍が位置したよりもさらに西方にあり、山頂の本丸は長辺が200mある、かなり大規模なものです。家康との戦いを想定して、ここに毛利輝元、あるいは秀頼の軍が入ることを考えたのではないかと言われています。関ケ原の戦いの大義名分は、両軍とも豊臣家のためです。玉城に秀頼が入っていれば、家康は裏切者ということになります。当然、形勢は変わったでしょう。
(「城人」)
三成軍は「張子の虎」であった
開戦前の陣形を見れば、完全に西軍(8万4千)が優勢です。東軍(7万4千)を囲むように陣を配置し、軍勢も1万西軍が多かったのです。戦いの火ぶたが切られたのですが、西軍の中で戦った軍勢は3万5千、対する東軍は6万でした。西軍の半分以上が傍観していたのです。
それにプラスして西軍側にいた小早川秀明軍が大谷隊の横を突くようにして襲撃。今までは「裏切り」と言われていましたが、最近の研究で予め家康側につくという約束があったことが分かったそうです。これを機に西軍が総崩れとなり、戦いはわずか6時間で決着したとされています。
(「infoseek」)
固い絆が勝敗を決する
試合の前に、勝敗は決しているという言葉があるように、関ケ原の戦いも戦いの前に大方決まっていたということでしょう。家康の勝因は何か。家康家臣団という言葉があるように、彼となら命を捧げても惜しくないと思う家臣団がいたのが絶対の強みでした。
三成は今で言うところの官僚上がりです。彼の行政能力を見抜いた秀吉によって取り立てられたのですが、戦いの現場が少ないため、武将たちの気持ちを把握する術が家康ほどではなかったと思われます。
朝鮮出兵の全体を取り仕切ったのが三成です。虎退治で有名な加藤清正ですが、彼が一番半島の奥底まで攻め入ったのに、結果的には秀吉に謹慎蟄居を命じられています。三成の報告に不快感をもったことは確かでしょう。彼以外に、福島正則、黒田長政、細川忠興など武断派と言われた7将が三成から離反します。集団を上手くまとめるか、否か。全てはそこがポイントだったのです。作戦や陣形は三成に分があったものの、結果的には大敗します。固い絆が、いかに重要かということでしょう。
古代の関ケ原については、次回に配信します。
(「関ケ原の戦い(Battle of Sekigahara)」)
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